AI人事は、人の適性を正確に判定する。向いていない者を、その職位・職業に就くことを排除する。
AI判定を受ける人間は全て、各々の「あるべき場所」に収まる。
これは人類の夢「適材適所」の実現であり、それを手にした社会・会社は、最適解を得て他の社会・会社に圧倒的な差をつけることが予想される。
これは結局、人類の進歩と発展をさらに加速させることになるだろう。
また仕事以外でも、芸術家・小説家に向いていると判定された人はそうなるだろうし、何よりAIの科学的判定という後押しで心理的に勇気づけられる。
(これは、人間界の新たな天命・運命というものではあるまいか。)
そうすれば人類は物質的にも精神的にもエンタメ的にも、もっともっと豊かになれる。
となるとAI人事・AI判定を採用しないということは、単に市場競争に負ける愚行というより、人類の進歩を妨げる悪行である。
(きっと近未来には、そういうイメージ=雰囲気が世を覆っていることだろう。)
最低でも、「まだ導入してないの?」と世の謗りを受けることだろう。
また、おそらく――
「あいつが自分より先に昇進するのは許せない」とか、
「人をそういう気持ちにさせるのが嫌だから年功序列制を維持したい」
などという面倒臭い感情を持つ生身の人間なんて、最初から雇わなければいい(代わりにAI搭載ロボットを使えばいい)という雰囲気すら、正しい雰囲気として社会に定着しそうに思える。
さて、我々はもう「能力貴族」の時代に――ネオ身分社会の中に生きている。
AI人事の導入と定着はその体制をさらに加速し、信頼性と客観性とお墨付きまで与えるものである。
「適材適所」は実現し、人間の才能の取りこぼしはなくなり、全ての人間が自分に適した職位・職業に就くことになる。
ついに人類は、理想社会に到達したかのようだ。
しかしその社会は、身分がすっかり固定化している。
生まれつきリーダーの才能を持った者(そう判定された者)がリーダーになり、そうでなければ一生なれない。
同じ社内の違う部署にさえ異動することはないかもしれない。
社長の子が社長になる、などという不合理な世襲制が廃れることは救いかもしれないが、それ以外は全く江戸時代またはインドのカースト社会である。
かつては家柄、今は能力――「生まれながらの何か」によって人間の一生が決まるという点で、人間社会は未来もずっと身分制が続くように思われる。
では我々は、そんなに高いAI判定がされないだろう大多数の人間は、ネオ身分制社会をどう生きればいいのだろうか。
「生まれながらの(能力貧民・能力平民という)身分をわきまえ」、能力貴族の人たちの下で働く一生を、これが運命と受け入れることが最善だろうか?
(だって、この身分制を壊したり否定しようとするのは、客観的にバカで有害なのだから。)
私としては、次の2つの心構えを持てばいいのではないかと思う。
1 全ては偶然だと心得ること、優れた能力を持つ人を尊敬しないこと
我々はもういい加減、優れた知的能力・身体能力を持つ人を尊敬することをやめるべきである。
なぜならその優れた能力というのは、たまたま偶然その人が持って生まれてきたものだからだ。
だからノーベル賞受賞者やオリンピック金メダリストを尊敬し褒め称えるのは、宝くじに当たった人を尊敬し褒め称えるのと同じことである。
そしてまた、名門の家に生まれた人を尊敬し褒め称えるのと同じことである。
あなたは宝くじに当たった人、名門の家に生まれた人を、尊敬し褒め称えるか? しないだろう。
それは、たまたま偶然でそうなったからという理由によるはずだ。
だったら、たまたま才能を備えて生まれてくるというのも全く同じではないか?
宝くじに当たった人を羨むのはわかるが、尊敬するのはおかしい。
だったら、優れた才能を持つ人に対してもそう感じるのが当然である。(そして、自分が卑屈になるのもおかしいことになる。)
これって否定できない理屈だと思うが、どうだろうか?
なお、蛇足だが、こういう観念が広まった時こそ、ベーシックインカム(全国民に、働いていなくても国家が一定のカネを交付する。)が日本でも真剣に検討される時だろう。
自分ではどうにもならない生まれつきの能力・適性で、貧富の差・活躍の差が生じるのは仕方ない――
しかし自分ではどうにもならない低い能力・適性をもって生まれた人間(つまり、客観的に見てどこにも雇ってもらえない人)は、それは偶然の産物なのだからやっぱり生活を保障すべきだという主張が、説得力を増すだろうからである。
(しかし、だったらもう「能力を持って生まれてくるのか不確実な、生身の人間自体がいらんじゃないか」との意見も出てくるはずだが。)
2 仕事に重きを置かないこと
デキる人は最初からデキる。適性のある人は最初からある。トップになる人は最初からその器がある。
それらは全て偶然の産物である。
適性なき人間は一生下働きかもしれないが、それも偶然のなせるわざ――
我々は、ある生物個体が他の個体より生存・繁殖に「適している」ことがあると知っている。(こんなことを否定する人間はいない。)
しかし、だからといって、その個体が尊いものだとは思わない。(思う方がおかしい。)
我々は別に、「本当にやりたいこと」を仕事にしているわけではない。
思うに世の働く人のほとんどは、生活のために仕事をしている。要するに「たかが生活費稼ぎ」である。
その中で一生下働きが運命づけられているとしても、本当は嘆くことなどないのである。(嘆くとすれば、その拘束時間が長すぎることだけだ。)
新身分社会で「上に立つ人」は、たまたまそういう適性があった人である。
しかもかつての殿様のように自分の全生活の上に立っているのではなく、たかが生活稼ぎの場でのみ、便宜上そういう立場にあるだけ……
人間が生まれながらの適性により、適材適所に配置された、身分の固定した社会――
それがあと二・三十年で到来しても、何も驚くことはない。
その中で人間いかに生くべきか、ネオ身分社会での人間学と道徳論がどのようになるものか、不謹慎ながら大変興味深いものがある。