プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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志村けんとチャールズ皇太子がコロナ感染-「テレビ局クラスター」の懸念

 3月25日、あの志村けん(70歳)が新型コロナに感染し、重体で入院していることが発表された。

 そして同日、イギリスの“永遠の皇太子”チャールズ皇太子(71歳)も、新型コロナの陽性反応が出たことが発表された。
 
 志村けんは、日本人の誰一人知らぬ者もない超大物芸人である。
 
 いや、芸人と呼ぶことに違和感があるほどの(ウィキペディアでは「コメディアン」とされている。普通のお笑い芸人はこんな風に呼ばれない)超大御所である。

 日本人にとっては、イタリアで6000人が死亡することより志村けん1人が感染し重体になっていることの方が、はるかに心が反応してしまうことだろう。

 一方のチャールズ皇太子だが、これは日本で言えば皇嗣秋篠宮殿下が罹患したことに相当する。

 イギリス人の心に与えるインパクトは、やはり相当のものがあるだろう。

 チャールズ皇太子は一部では(いや、一部ではない?)「死ぬまで皇太子」と揶揄されてきたのだが……

 それが現実にでもなれば今回の新型コロナ蔓延は、中世ヨーロッパの黒死病ほどではなくても「歴史を変えた」出来事として後世に残ることになるかもしれない。 


 さて、このたびの志村けんの報で、誰でも思うことがある。

 それは、あれほど売れっ子の(出演番組の多い)志村けんが感染しているなら、他の共演者いやテレビ局員だって感染しているのが当たり前ではないか、という懸念である。

 このうち、共演者すなわち芸能人の方は、仮に感染が広がっていてもまだしもマシだ。

 なぜなら、こう言っては何だが――

 ある芸能人の代わりの芸能人は、いくらでもいるからである。

 どんなお馴染みの人気者がコロナに罹ってテレビから消えたとしても、その代わりになる芸能人はすぐ補充が効く。

 残酷と言えば残酷だが、視聴者は誰かが消えて誰かが新しく現れることについて、すぐさま慣れるものである。

 
 だが、「テレビ局・テレビ局員がクラスター化する」となると話は別だ。

 芸能人がいくらいたって、テレビスタッフにコロナが蔓延してしまえば(あるいは、その恐れがあるだけで)、番組自体が作れなくなってしまう。

 そうなると日本人は、そこでようやく「日常の終わり」に気がつくことになるかもしれない。

 3月25日だけで東京では40人以上の感染が確認されたが、まだまだ日本は(ヨーロッパと比べれば信じられないほど)平穏な「平常運転」が続いている。

 しかし、テレビ局の一つでも閉鎖されるようなことになれば、それでやっと今までの日常が終わったことに気づくことになるだろう。

(いや、一局くらいでは「すぐ慣れる」程度かもしれないが……)


 逆に言えば、「テレビ局でクラスター発生」という事態でも発生しないと――

 今は非常時だということを、全ての日本人が実感することはないかもしれない。

世界戒厳令と首都封鎖-「オリンピックなんてやってる場合か」

 新型コロナウイルスの猛威はとどまるところを知らず、世界最悪の感染地であるイタリアでは3月22日に死者が5000人を超えた。
 フランスでも外出禁止令が出たりと、特にヨーロッパ諸国はまるで戒厳令状態の有様である。
 それに比べれば日本ははるかにマシのはずだが、しかし3月23日、東京都の小池百合子都知事は、

●この3週間、オーバーシュートが発生するか否かの大変重要な分かれ道である
●都内で大規模な感染拡大が認められた場合は、東京都を封鎖する「ロックダウン」も検討する

 と会見で述べた。
 しかしいつも思うのだが、なぜ一部の政治家の人たちは「オーバーシュート」とか「ロックダウン」などと言う言葉をいちいち使いたがるのだろうか。
 高齢者、いや普通の庶民は「オーバーシュート」が「感染者の爆発的増加」、「ロックダウン」が「封鎖」ということはまずわからないだろう。
 日本語で言えば誰でもわかるとわかりきっているのに、
 しかも日本語で言った方がはるかに字数の節約でもあり言いやすくもあるのに、
 確か数年前、行政業界では「カタカナ語はなるべく使わないようにしよう」と決めたこともあるはずなのに、
 つくづくカタカナ横文字言葉が好きな人は好きなのである。
 
 さて、それはともかく、3月23日にはカナダが「もし予定どおり今年の夏に東京オリンピックを開催するのなら、カナダは選手団を送らない」と通告してきた。
 当たり前の話であり、むしろ日本にとっては「世界中から選手団やスタッフや観光者が来る」なんて事態は、キッパリ願い下げであるはずだ。
 そしておそらく、いやほぼ確実に、東京五輪は延期になるだろう。
 もし当初予定どおり7月下旬に開催するとすれば、それは「史上最低最悪のオリンピック」として歴史に残ることになる。
 「無観客試合」どころか、「無選手試合」に近い種目だって出てくるだろう。

 だいたい、イタリアなんかは「オリンピックどころじゃあるかい」と思うのが当然である。
 フランスもイギリスも、もちろんアメリカも、まともな人間なら「こんな時スポーツの祭典もクソもあるか」と感じるのが当然である。
 そして日本でも、いつも(どうでもいいような話題のときにも)出てくる「不謹慎厨」と呼ばれる人たちは、今こそ立ち上がるべきではあるまいか。
 世界で何万人も死んでいるときに、ほとんど世界中が戒厳令状態であるときに――
 世界的スポーツの祭典なんかやるのは、それこそ世界最大級の不謹慎に他ならないはずだ。

 さて、それにしても……
 今この時点の世界と日本の情勢が、(かの有名な『日本沈没』を書いた)SF作家の小松左京の有名長編作品に酷似しているのはとても感慨深い。
 「ウイルスの蔓延が南極以外の全世界に広まる」というのは、『復活の日』。
 原作小説では「チベット風邪」だったが、映画版では「イタリア風邪」――まさにそのイタリアで、最悪の感染状況が起こっているではないか。
 そして「首都封鎖」は、もちろん『首都消失』。
 はたして今度は、日本が経済的に沈没するという形で『日本沈没が現実化するのだろうか……

障害者大量殺傷事件被告に死刑判決-死刑制度の根拠は「除去機能」である

 3月16日、例の「相模原市障害者大量殺傷事件」の犯人である植松聖被告に対し、横浜地裁は求刑どおりの死刑を言い渡した。
 
 妥当というか、当たり前の判決である。
 これで死刑にならなかったら、今後日本で死刑になる人はいないだろう。
 被告自身が死刑を望んでおり「控訴はしない」と断言しているので、おそらくこれで死刑確定と思われる。

 さて、日本人の圧倒的大多数は、この死刑判決に「そりゃそうだ」と思うとともに、死刑制度の存続にも賛成しているはずである。
 近い将来日本で死刑制度が廃止される見込みは、世論的・国民感情的に、全くないと言っても過言ではないだろう。

 どう見ても旗色の悪い死刑廃止論者だが、その論拠とするところは次の3つに集約されると思われる。

(1) とにかく人の命を奪うことは、どんな理由であろうと許されない
  ⇒ つまり、「応報刑」の否定である。 
(2) 死刑に犯罪の抑止力はない
  ⇒ つまり、「死刑になりたいから死刑相当の犯罪をやる人間もいる」という論法である。
(3) 死刑にして、後で冤罪とわかったらどうするのか

 まず(3)については、今回のケースは100%冤罪じゃないとわかっているのだから説得力がない。
 (2)については、人間には次の5種類がいると考えればわかりやすい。(これで、全ての人間を網羅しているはずである。)
  ① 死刑になりたいから、死刑相当の犯罪をする人
  ② 死刑になってもいいから、死刑相当の犯罪をする人
  ③ 死刑のことなど考えられない心理的状態になって、死刑相当の犯罪をする人
  ④ 死刑が怖いから、死刑相当の犯罪をしない人
  ⑤ 死刑があろうがあるまいが、死刑相当の犯罪はしない人
 当たり前の話だが、死刑制度は④の人間が死刑相当の犯罪をすることを抑止している。
 それだけでも、「抑止力がない」とは言えない。
 
 もちろん死刑制度の存在が、いったいどれだけの数の死刑相当の犯罪発生を抑止しているのかは、誰にもわからないことである。
 しかしたぶん、1件や2件、1人や2人の犠牲者に収まらないだろうことは、何となく想像はできる。
 そして現代の一般的な論法で言えば、「1人でも犠牲者を減らす」ことができれば、それは支持されるべきことではあるまいか。

 よって、問題となるのは(1)のみとなる。
 今回の場合、被告は死刑を望んでいるのだから、死刑にしてしまったら被告の思うツボである――
 これは、死刑制度に絶対賛成派の人にとっても苦々しい事実ではある。
 しかし私は、別に死刑が(他の犯罪でもそうだが)応報刑であると解する必要、応報刑であるべきだと思いたがる必要は、全然ないと思う。

 これはもう、世の中の人がほとんどみんな思っていることだと思うが……
 結局のところ、今回の被告のような人間は、どうやったって必ず生まれてくるのである。
 これまでもこれからも、大量殺人するような人間や「ヒトラーのファン」みたいな人間が生まれ育たないようにすることなんて、できはしないのである。
(ただし、そういう素質を持つ胎児を判定し、遺伝子操作とかすることができるのなら、話は別だ。)

 人間には、素晴らしい能力や性格を持って生まれる者がいる。
 その逆に、能なしとして生まれたり、危険極まる性格・性癖・性向を持って生まれてくる者がいる。
 それは宝くじでありババ抜きであり、確かに本人の責任でも選択でもない。
 だから死刑制度の真の論拠となるのは、その「除去機能」にあると言うべきだろう。 

 たいした能力がなくても、生きていてよい。
 それは本人のせいではなく、仕方ないことだからである。
 他人が耐えられないほどの害ではないからである。(これには異論のある人もいようが……)

 危険な性格・性癖・性向を持っていようと、ただそれだけなら生きていてもよい。
 生まれつきそうであるのは、本人のせいではないからである。
 しかし、現実に人を殺したとなれば、これはもう明白に他人にとって害としか言いようがない。
 であれば、そんな現実の危険は世の中から除去した方がいいに決まっているし、これにはほとんど全ての人が賛成するだろう。
(実際、今の日本人の大部分は賛成している。)
 いくら「仮釈放なしの終身刑」があると言ったって、大災害の時に脱走するかもという懸念は、決して消え去らないからである。
(「絶対安全」な原子力発電所はない、ということにも似ている。)

 死刑制度は、応報のためにあるのではない。
 その真の根拠は、除去機能にある。(これに続くのが抑止力である。)
 あなたもたぶん、そう思っているのではなかろうか。