妥当というか、当たり前の判決である。
これで死刑にならなかったら、今後日本で死刑になる人はいないだろう。
被告自身が死刑を望んでおり「控訴はしない」と断言しているので、おそらくこれで死刑確定と思われる。
さて、日本人の圧倒的大多数は、この死刑判決に「そりゃそうだ」と思うとともに、死刑制度の存続にも賛成しているはずである。
近い将来日本で死刑制度が廃止される見込みは、世論的・国民感情的に、全くないと言っても過言ではないだろう。
どう見ても旗色の悪い死刑廃止論者だが、その論拠とするところは次の3つに集約されると思われる。
(1) とにかく人の命を奪うことは、どんな理由であろうと許されない
⇒ つまり、「応報刑」の否定である。
(2) 死刑に犯罪の抑止力はない
⇒ つまり、「死刑になりたいから死刑相当の犯罪をやる人間もいる」という論法である。
(3) 死刑にして、後で冤罪とわかったらどうするのか
まず(3)については、今回のケースは100%冤罪じゃないとわかっているのだから説得力がない。
(2)については、人間には次の5種類がいると考えればわかりやすい。(これで、全ての人間を網羅しているはずである。)
① 死刑になりたいから、死刑相当の犯罪をする人
② 死刑になってもいいから、死刑相当の犯罪をする人
③ 死刑のことなど考えられない心理的状態になって、死刑相当の犯罪をする人
④ 死刑が怖いから、死刑相当の犯罪をしない人
⑤ 死刑があろうがあるまいが、死刑相当の犯罪はしない人
当たり前の話だが、死刑制度は④の人間が死刑相当の犯罪をすることを抑止している。
それだけでも、「抑止力がない」とは言えない。
もちろん死刑制度の存在が、いったいどれだけの数の死刑相当の犯罪発生を抑止しているのかは、誰にもわからないことである。
もちろん死刑制度の存在が、いったいどれだけの数の死刑相当の犯罪発生を抑止しているのかは、誰にもわからないことである。
しかしたぶん、1件や2件、1人や2人の犠牲者に収まらないだろうことは、何となく想像はできる。
そして現代の一般的な論法で言えば、「1人でも犠牲者を減らす」ことができれば、それは支持されるべきことではあるまいか。
よって、問題となるのは(1)のみとなる。
今回の場合、被告は死刑を望んでいるのだから、死刑にしてしまったら被告の思うツボである――
これは、死刑制度に絶対賛成派の人にとっても苦々しい事実ではある。
これはもう、世の中の人がほとんどみんな思っていることだと思うが……
結局のところ、今回の被告のような人間は、どうやったって必ず生まれてくるのである。
これまでもこれからも、大量殺人するような人間や「ヒトラーのファン」みたいな人間が生まれ育たないようにすることなんて、できはしないのである。
(ただし、そういう素質を持つ胎児を判定し、遺伝子操作とかすることができるのなら、話は別だ。)
人間には、素晴らしい能力や性格を持って生まれる者がいる。
その逆に、能なしとして生まれたり、危険極まる性格・性癖・性向を持って生まれてくる者がいる。
それは宝くじでありババ抜きであり、確かに本人の責任でも選択でもない。
だから死刑制度の真の論拠となるのは、その「除去機能」にあると言うべきだろう。
たいした能力がなくても、生きていてよい。
それは本人のせいではなく、仕方ないことだからである。
他人が耐えられないほどの害ではないからである。(これには異論のある人もいようが……)
危険な性格・性癖・性向を持っていようと、ただそれだけなら生きていてもよい。
生まれつきそうであるのは、本人のせいではないからである。
しかし、現実に人を殺したとなれば、これはもう明白に他人にとって害としか言いようがない。
であれば、そんな現実の危険は世の中から除去した方がいいに決まっているし、これにはほとんど全ての人が賛成するだろう。
(実際、今の日本人の大部分は賛成している。)
いくら「仮釈放なしの終身刑」があると言ったって、大災害の時に脱走するかもという懸念は、決して消え去らないからである。
(「絶対安全」な原子力発電所はない、ということにも似ている。)
死刑制度は、応報のためにあるのではない。
その真の根拠は、除去機能にある。(これに続くのが抑止力である。)
あなたもたぶん、そう思っているのではなかろうか。