プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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イランの「なんちゃって報復攻撃」とアメリカとの宿命の対決

 2020年は、アメリカとイランのものすごいクライシスで幕を開けた。
 すわ、ついに戦争かと思ったら、どうも尻すぼみで終わりそうな感じが漂ってきた。
 まず1月3日、イランの革命防衛隊の精鋭とされるコッズ部隊のソレイマニ司令官が、イラクの首都バグダッドの国際空港にいるところをアメリカのドローン攻撃で殺された。
 イラン国内で、ではなく隣国イラクの首都で、である。
 それはもちろん、ソレイマニ司令官が外国で作戦中(アメリカにとってはテロ作戦)だったからだ。
 もし彼が自分が率先して最前線に出る「闘う司令官」でなく、本国の奥深くの司令室から指示を出しているような普通の司令官であったら、こんなことにはならなかったろう。
 そしてたぶん彼は、まさか自分をアメリカが殺しにかかるなんて思ってなかったろう。
 そうでなければ、まさにアメリカ軍が駐留しているイラクの首都のど真ん中で、車に乗って動き回るなんて驚くほど「軽率な」ことはしなかったろう。
 彼自身もイランそのものも、アメリカを舐めてた・タカをくくってたとしか言いようがない。

 さて、これに対してイランは1月8日、イラク国内の米軍基地にミサイル十数発の攻撃を行い、国営テレビが「アメリカのテロリストども80名を殺害した」と発表した。
 しかしアメリカの発表では、死者はゼロである。 
 なんでもイランは事前にイラクへ攻撃通告を行い、死者を出さないよう着弾点も調整していたとも言われる。
 まさに茶番というか、「ナンチャッテ攻撃」である。
 私はイランについて詳しくもなんともないが、イラン国民はインターネットにアクセスできず、ただ国営テレビの報道を鵜呑みにしているのだろうか。
 もしそうだとしたら、なんとも可哀想な境遇である。

 そしてまるで、蛇足の悲劇であるかのように――
 同じ1月8日、イランの首都テヘランを飛び立ったばかりのウクライナ旅客機が墜落して乗員乗客全員が死亡した。
 これがまた、イランの防空ミサイルの誤射ではないかと言われているのだ。 
 これが正しいとすれば、イランにとって何という偶然なのだろう。

 イランは確かに、中東では(イスラエルを除き)最強の軍備を誇る国家である。
 しかしもちろん、本気で戦えばアメリカに勝てるわけがない。  
 
 イラン海軍は小型船舶を大量に使い、米海軍を翻弄するのではないかとの話もあるが……
 そんなんでアメリカ海軍に勝てるんだったら、旧日本軍だって特攻モーターボート「震洋」で同じことができたろう。
 どうも、あのベトナム戦争の影響は、世紀を超えて大きいようで――
 「ゲリラ戦だったらアメリカ軍に勝てる」というのは、子どもから大人まで世界的な通念になってしまっているようである。
 しかしイランにしてみれば、そんなので多少アメリカを苦しめたところで、大切な核施設を完全破壊されてしまうのは目に見えている。
 たとえ本土決戦(地上戦)で負けないにしても、そうなったらイランの影響力は地に落ちるので、全面戦争なんてやりたくてもやれないのである。
 一方アメリカの方も、イランの現政権を壊滅させて直接占領するとか、傀儡政権を建てられる見込みはほとんどない。
(たぶんアメリカは、イラン国内にその手の協力者をほとんど全く抱えていない。
 あなたも「(フセイン政権からの)亡命イラク人」のことは聞いたことはあっても、「亡命イラン人」なんて単語は聞いたことがないだろう。)
 
 よっておそらく、今後の両者は「本国外で作戦中の部隊や要人は殺し合うが、いつも尻すぼみで終わる」パターンがしばらく続くのではなかろうか。
 しかしそれはそれとして、アメリカとイランは「いつかは」対決しなければならない間柄だろう。
 アメリカにとって返す返すも残念なのは、かつて親米であったパーレビ王朝が1979年のイラン革命で打倒され、ホメイニ師イスラム国家が樹立されてしまったことである。
 これは中国が共産党の手に落ちたのと並び、冷戦時代のアメリカ世界戦略の取り返しが付かない失策であり汚点であった。
 中国の共産党政権はいずれ崩壊するかもしれないが(別に中国自体が滅びるわけではない)、
 イランのイスラム政権が崩壊する可能性は当分の間ゼロに等しい。
 その意味でイランはある意味、中国以上にアメリカにとって厄介な相手である。
(しかも例によって、ロシアと中国がそのバックに付いている。)

 何の根拠もない予測ではあるが――
 アメリカとイランが本気で闘うのは、2040年年代~2050年代あたりではなかろうか。
 中国共産党政権と、ロシアのプーチン政権(とその後継者)が片付いた後、いよいよ最後の難敵としてイランが残るのではないか、と思われるのだ。

カルロス・ゴーン日本脱出-やっぱり日本は外圧でしか変われない/いよいよ裁判所が世間から糾弾される日?

 12月30日、あの日産の元トップ、カルロス・ゴーン被告が国外に脱出した。
 行き先はレバノンで、既に現地に到着し(レバノン国家に)厳重に警護されているという。
 しかもその脱出方法というのが、レバノンのテレビ局によれば――
●実行したのは「民兵組織」で、米国在住の妻キャロル氏と連絡を取り合った。
●クリスマスディナーのための音楽隊を装った一団がゴーン被告の東京都内の自宅に入り、
●楽器の保管ケースにゴーン被告を隠し、地方の空港から出国した。
 というものだったらしい。
 まるで血湧き肉躍るスパイ映画のような展開で、これは「映画化決定」と反射的に思った人も多かったのではないか。

 ゴーン被告は、保釈金15億円を積んで保釈中であった。
 もちろん東京地検特捜部は「証拠隠滅のおそれが高い」として大反対していたのだが、
 しかし東京地裁は「それはそうだが、弁護人らの指導監督が徹底している」として保釈を許可した。
 当然ながら、保釈金15億円は没収されるだろう。
 だがおそらく、ゴーン被告にとってはハシタ金である。
 ハシタ金と言っては言い過ぎかもしれないが、それで自由になれるなら(もう日本の裁判を受けなくて済むなら)許容できるほど安いもんだ、ということだろう。
 ゴーン被告は、レバノンから「日本の人質司法」を攻撃する声明をした。
 おそらく今後もしばらくはレバノンにとどまり、同じような情報発信を続けると思われる。
 レバノンと日本の関係は良好な方だと思うが、しかしどうも、レバノンは日本へのゴーン被告の引き渡しには応じない気がする。
 こういうことを言うのも何だが、レバノン政府の主要役人には、それこそゴーン被告が謝礼金みたいなものを払うだろうと思われるからである。

 さて、しかし、ここ日本で問題にされそうなのは、「人質司法」ではなく「保釈」の方だろう。
 ただでさえ(刑事事件の)保釈中の被告が逃走する、なんて事件が頻繁に起こっているからである。
 そしてそのとき世間から批判されるのは、決まって「護送担当」の人たちや機関であって、当の保釈を決めた裁判所ではない。
  
 いや、ネットの書き込みでは確かに、裁判所や裁判官の責任を問う声があるのだが……
 しかし(なぜか)一般メディアは、ほぼ決して裁判所を批判しないのだ。

 裁判官というのは長らく、「日本で唯一(と言っていいほど)批判されない公務員」であった。
 あれだけ公務員バッシングが吹き荒れた1990年代あたりでも、裁判所と裁判官だけはなぜかずっと聖域であった。
 その理由が何なのかはよくわからないが、一種の「裁判官幻想」とでも言うべきものがあった(ある)のは、確かなように思える。
 だがそれも、もちろんいつまでも続くとは限らない。

 おそらく日本の裁判所は、どれほど保釈中の被告が逃走して一般市民に被害を与えようと、保釈を「公平に」運用しようとする姿勢を変えることはなかっただろう。
 なぜなら裁判所も裁判自体も、たぶん日本で最も前例を墨守するものだからである。
(だから「一人殺しただけでは死刑にならない」が国民的常識になってしまっているのだ。)

 そしてもう一つの理由は、「裁判所は世間から公然と批判されない」のが今までの日本社会の不文律だったからである。
 保釈中の被告が何をしようと、世間様から批判されるのは検察や警察だけ――
 とわかっていれば、それは保釈基準を変えようなんて動機はなくなるものである。
 世間から無関係に保釈するのが当然と言えば当然である。

 しかし今回のような、まるでハリウッドのアクションサスペンス映画さながらのド派手な「保釈中の被告が国外脱出」なんて事件が起こってしまえば――
 それも、検察は保釈に反対していたのが国民にもよく知られていれば――
 いよいよ批判の矛先は、裁判所と裁判官にも向けられて仕方ないように思われる。
 もしかするとこの事件、いよいよ日本の裁判官(という公務員)と裁判所(という役所)が、公然と世間に批判される皮切りになるキッカケになるかもしれない。
 長年続いてきた「聖域」が、ついに攻撃を受けることになるのかもしれない。
 そしてまた、明治維新にしろ太平洋戦争敗戦にせよ……
 結局のところ日本の社会は、こういう外国絡みの「外圧」でしか変われないことを、またも立証したことにもなるのだろう。

イオン「マスク着用禁止」と日本人のマスク好き・マスク依存症について

 12月中旬、小売り大手のイオンは、グループ会社も含め「接客時のマスク着用を、原則として禁止する」方針を伝えた。

 特に傘下の靴小売チェーン「ジーフット」では、接客担当社員だけでなく、取引先と打ち合わせする事務職にも禁止が及んだと伝えられている。

www.j-cast.com

 

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 これだけ聞けば、「ま~た日本企業ではびこる抑圧主義か、クレーム過敏症か」などと反射的に感じてしまいそうである。

 私も通常ならそんな感じ方をするのだろうが、しかしこの件についてはやや感じ方が違う。

 なぜなら昔から、思っていたのだ――

 日本には、マスクしている人が異様に多いのではないか、と

 テレビのニュースなんかでよく街頭の光景が映されるが、日本のそれには必ず(と言っても間違いないほど)マスク着用者が複数人映る。

 しかし気のせいか、外国の街頭の光景にはマスク着用者はほとんど見ることがないのである。

 そしてあなたも、気づいているのではないか。

 この日本には、そんなに年がら年中風邪を引いているわけがないはずなのに、年がら年中マスクをしている人がかなりいる、ということに。


 私にはそんな感覚はまるでないので、推測だけでものを言うが――

 おそらく年がら年中マスクを着けている人というのは、(もしそれが醜貌コンプレックスによるものでないのなら)マスクを着けることで「安心」するのだろう。

 たぶんあれは、「他人の視線から表情を守る」防具みたいな役割を果たしている、と思われる。

 サングラスは自分の目を隠すが、マスクはその逆に目以外の部分を(顔の下半分を)そっくり隠す、というわけだ。

 そしてサングラス着用で仕事するのは、百パーセントの人が無礼だと感じるだろう。

 だったらマスク着用で仕事するのが無礼だと思われるのも、確かにこれは一理あると言わねばなるまい。

 
 もう一つ、マスク着用は確かに仕事の邪魔である。

 私もマスクを着けて仕事したことが、生まれてこの方ほんの数回はあるのだが(そもそも私はあまり風邪を引かない)……

 しかし電話や面と向かって人と話をするときは、マスクが邪魔で邪魔でたまらなく感じるので、やっぱり外していたものである。

 こんな風に感じるのは私だけではないと思うが、あなたはどうだろうか。


 さらにもう一つ、風邪など病気の感染を防ぐために仕事中でもマスク着用をすべきだというのなら、いったい外国の労働者はどうしているのだろう。

 もしそれが本当に効果があるなら、WHO(世界保健機関)あたりが途上国向けに大々的に広報し配布しているのではなかろうか。

 日本でも、そういうコマーシャルが頻繁に流れているのではあるまいか。

 アフリカの街頭を映した光景には、マスクを着用した黒人がたくさんいるはずではないか?


 たぶんあなたが日本人であれば、「欧米のレストランでウェイターやウェイトレスがマスクをしている」なんて光景には、かなり違和感を抱くはずである。

 いや、ちょっと想像しがたいはずである。

 そしておそらく、それが日本における日本人のウェイターやウェイトレスであっても、やはり違和感はあるだろう。

 
 どうも世界の中でも日本人には、際立って「マスク好き」の気があるように思われる。
 
 さらに言えば、「マスク依存症」の人の割合が際立って高いのかもしれない。

 もしマスク好きの人たちが、本当に感染予防に効果があると思ってマスクしているとすれば、それはかの名高い日本人の「ケガレ意識」が一役買っているのではないかと思う。

 すなわち、「クシャミする姿を人に見せる」こと自体がケガレたことなので、そう見られたくないからマスクを着ける――

 あるいは、クシャミの飛沫が(そもそも唾液だし、しかもそれにはバイ菌が入っていて)ケガレているから、それをぶちまける非常識人(ケガレ人、とでも言おうか)と見られたくないからマスクを着ける、

 という成り行きである。

(しかし、「クシャミでケガレる=バイ菌をばらまく」というのがもし明々白々の常識だとするなら、なぜ日本以外の世界ではマスク着用が呼びかけられていないのか説明は難しい。


 もしかすると日本におけるマスクとは、先に述べたような「表情の防具」としての使われ方がむしろ主流なのかもしれない。

 パーソナルスペースの防御と言おうか、それは「他人とあまり関わりたくない/見られたくない」という意思の表明なのかもしれない。

 もしそうだとすれば、接客業の人――取引先と打ち合わせる人であっても――が、マスクを着用するのは「なんだコイツ」と思われても仕方ないだろう。

 別に私自身は、マスクするのが無礼だと感じるわけではないが……

 世に数多くいるだろう「マスク依存症」の人たちが、風邪を予防したくてマスクを着けている人の足を引っ張っているのではないか、との感想は、やはり拭えないものがある。