12月30日、あの日産の元トップ、カルロス・ゴーン被告が国外に脱出した。
しかもその脱出方法というのが、レバノンのテレビ局によれば――
●実行したのは「民兵組織」で、米国在住の妻キャロル氏と連絡を取り合った。
●クリスマスディナーのための音楽隊を装った一団がゴーン被告の東京都内の自宅に入り、
●楽器の保管ケースにゴーン被告を隠し、地方の空港から出国した。
というものだったらしい。
まるで血湧き肉躍るスパイ映画のような展開で、これは「映画化決定」と反射的に思った人も多かったのではないか。
ゴーン被告は、保釈金15億円を積んで保釈中であった。
もちろん東京地検特捜部は「証拠隠滅のおそれが高い」として大反対していたのだが、
しかし東京地裁は「それはそうだが、弁護人らの指導監督が徹底している」として保釈を許可した。
当然ながら、保釈金15億円は没収されるだろう。
だがおそらく、ゴーン被告にとってはハシタ金である。
ハシタ金と言っては言い過ぎかもしれないが、それで自由になれるなら(もう日本の裁判を受けなくて済むなら)許容できるほど安いもんだ、ということだろう。
おそらく今後もしばらくはレバノンにとどまり、同じような情報発信を続けると思われる。
さて、しかし、ここ日本で問題にされそうなのは、「人質司法」ではなく「保釈」の方だろう。
ただでさえ(刑事事件の)保釈中の被告が逃走する、なんて事件が頻繁に起こっているからである。
そしてそのとき世間から批判されるのは、決まって「護送担当」の人たちや機関であって、当の保釈を決めた裁判所ではない。
いや、ネットの書き込みでは確かに、裁判所や裁判官の責任を問う声があるのだが……
いや、ネットの書き込みでは確かに、裁判所や裁判官の責任を問う声があるのだが……
しかし(なぜか)一般メディアは、ほぼ決して裁判所を批判しないのだ。
裁判官というのは長らく、「日本で唯一(と言っていいほど)批判されない公務員」であった。
あれだけ公務員バッシングが吹き荒れた1990年代あたりでも、裁判所と裁判官だけはなぜかずっと聖域であった。
その理由が何なのかはよくわからないが、一種の「裁判官幻想」とでも言うべきものがあった(ある)のは、確かなように思える。
だがそれも、もちろんいつまでも続くとは限らない。
おそらく日本の裁判所は、どれほど保釈中の被告が逃走して一般市民に被害を与えようと、保釈を「公平に」運用しようとする姿勢を変えることはなかっただろう。
なぜなら裁判所も裁判自体も、たぶん日本で最も前例を墨守するものだからである。
(だから「一人殺しただけでは死刑にならない」が国民的常識になってしまっているのだ。)
そしてもう一つの理由は、「裁判所は世間から公然と批判されない」のが今までの日本社会の不文律だったからである。
保釈中の被告が何をしようと、世間様から批判されるのは検察や警察だけ――
とわかっていれば、それは保釈基準を変えようなんて動機はなくなるものである。
世間から無関係に保釈するのが当然と言えば当然である。
しかし今回のような、まるでハリウッドのアクションサスペンス映画さながらのド派手な「保釈中の被告が国外脱出」なんて事件が起こってしまえば――
それも、検察は保釈に反対していたのが国民にもよく知られていれば――
いよいよ批判の矛先は、裁判所と裁判官にも向けられて仕方ないように思われる。
もしかするとこの事件、いよいよ日本の裁判官(という公務員)と裁判所(という役所)が、公然と世間に批判される皮切りになるキッカケになるかもしれない。
長年続いてきた「聖域」が、ついに攻撃を受けることになるのかもしれない。
そしてまた、明治維新にしろ太平洋戦争敗戦にせよ……
結局のところ日本の社会は、こういう外国絡みの「外圧」でしか変われないことを、またも立証したことにもなるのだろう。