プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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マクドナルド「賃上げで業績回復」、ファーウェイ「優秀な日本人技術者は3000万円で引き抜き」-みんなで沈む“日本人民共和国”

 マクドナルドの業績が驚異的に回復しているらしい。

 しかもその大きな要因は、従業員の賃金アップでモチベーション(士気)が上がったからだという。

 こんなことが(断言はしないが)日本人経営者でやれるわけがないと思ったら、案の定――

 それをやったのは52歳の外国人女社長、サラ・カサノバ氏であった。

news.nifty.com


 この記事を読むと前社長“コストカッター”原田泳幸 氏は、まるで目先のちっぽけな利益だけ考える近視眼のダメ経営者だったように見られかねないが――

 しかし私は(彼の在任中の状況は全然知らないながら)、原田氏にちょっと同情する。

 なぜなら業績が悪いときに「従業員の給与を上げよう」なんて、日本人なら口が裂けても言えないのが普通だからである。

 そんなことしたら同じ日本人の株主なり世間なりに、「なに考えてんだ」とボロクソ言われるのが必定だからである。

 これをやれたのは、カサノバ社長が外国人であることが非常に大きいだろう。

 どうやらこの成功ケースもまた、

「日本人は外圧に弱い」

「日本人は舶来ものに弱い」

「日本人は“社内の人間が言ってもフンと却下するが、全く同じことを外部の権威者のような人に言われると言うことを聞く”」

 ことの、物悲しいと言えば物悲しい系譜に連なるお話のようである……


 さて一方、中国のスマホ開発・ICTソリューション会社であるファーウェイ(HUAWEI華為技術)社長のリチャード・ユー氏が――

 11月28日の「ワールドビジネスサテライト」(テレビ東京)で受けたインタビューで、

「優秀な人材が欲しければ、それに見合う対価を払わなければなりません」

「いま投資しないのは(優秀な人材のために報酬を割かないのは)大きなリスクです。いま成功していても、危機意識がなければ数年後に会社はなくなってしまうかもしれません」

 と語ったことが、大きな反響を呼んでいる。

(⇒ 2017年11月29日 16:36キャリコネニュース:「優秀な人材が欲しければ、それに見合う対価を払う」ファーウェイCEOの発言が話題に 「聞いているか日本の経営者よ」)

 
 おそらくこの2つのケースを見て、

「それみたことか! だから日本は世界から置いてかれるんだ! もう技術でも中国に抜かれるぞ!」

 と思わない日本人労働者というのは、かなり珍しい存在だろう。


 しかしながら、そう思っている日本人労働者もまた、やはりその他の日本人と同じ穴のムジナである可能性は非常に高い。

 早い話が、もしその日本人労働者が日本企業の経営者だとして――

「業績が悪いのに従業員の給与アップを公然と主張する」

とか、

「いまの従業員を差し置いて、よそから超高給で技術者とかを引き抜くことを主張する」

なんてこと、する度胸のある人はどれくらいいるだろう?

 思うに、たとえそうすべきだということが「わかっている」としても、世間や現従業員らの反発が怖くて――

 端的に言って「和を乱す」ことへの恐れで、とてもできないのではないか?


 そして「いや、自分ならできる」という人に質問だが……

 ではもし、あなたの住む地元の自治体が「年収3000万円で優秀な職員を募集する」などと言い出したら、あなたは公然と賛成するだろうか?

 これはやっぱり、住民や世間からボロクソ言われる結末になるのではないだろうか。あなたもやっぱり、反射的にそう反応するのではないか。

 

 「いい人材」を集めるには、高い給与を出すのが当たり前であり王道である。

 しかし他国は知らず日本では、そういうことはほとんど非道徳的・人非人(にんぴにん)的な「けしからん行為」と受け止められる雰囲気がある。

 これは日本の風土であって、こういう風土がなくなるまでには十年単位の時間を要するのかもしれない。

 そしてこの「日本人民共和国」または「封建土人国ニッポン」は、ますます衰退の道を“道徳的に”辿ることになるわけだ……


(もっとも、日本の経済力が中国の経済力より大きかったなんていうのは、歴史的に見ればものすごく珍しいことである。

 一時の異常な時代が終わって過去の時代に戻るだけだから、そんなに悲観することもないのだろう。)

大分県北部「村八分騒動」続報-“田舎死すべし、過疎化やむなし”の国民感情

 今年11月初旬、大分県北部の某集落で「村八分」が発生し、それに対して大分県弁護士会が是正勧告をしたというニュースがあった。

tairanaritoshi-2.hatenablog.com


 その続報が、次の新聞記事である。

www.asahi.com


 弁護士会の勧告に対し、住民側が反発しているというのは当たり前である。

(そうじゃないなんてこと、あり得るだろうか?)

 その言い分を要約すると、次のようになる。


●当該男性(元公務員・Uターン帰郷者)の自治会への参加を断ったのは事実。

 最初は「住民票がなかったため」、後には「全員の賛同を得られなかったため」。

 中には「この人が加入するなら自分は自治会を抜ける」と言う人もいた。

 また、市報の配布と行事の連絡もやめているが、行事参加自体やゴミ捨て場の使用は拒否していない。


●当該男性は、自治会への加入を拒否されたことに絡んで自治会役員らを脅迫の疑いで刑事告訴した。

 これは、地方自治法が定める加入拒否条件(「正当な理由」)に相当するはず。


●「そもそも感情の問題なのに」法律論を持ち出してくる弁護士会もおかしい。

 

 さて、公平を期して言えば、この元公務員の当該男性というのが「メチャクチャ不愉快で嫌な奴」という可能性もある。

 これは、この男性に直接接した人でないとわかりようがない。

 しかし全般的な印象として、「もちろん自治会側(住民側)が悪いじゃないか」と感じる部外者がほとんどだと思われる。

 特に「そもそも感情の問題なのに、法律論を出してくるのがおかしい」という“反論”には――

“度しがたい田舎土人老いぼれどものタワゴト”

 と嘲笑する人が多いだろう。

 
 これが反論になるならば、イジメもパワハラも全てが「感情の問題」である。

 それに法律を当てはめるのがオカシイと言うならば、何でもやりたい放題である。

 
 しかし一方、これはこれで田舎土人の素直な(それこそ)感情の発露とも言える。

 そして田舎土人のみならず、全ての人間に共通する「真理」なのだとさえ言える。

 そう、個々人の感情の前には、法律なんてジャマなゴミクズ程度の価値しかないのである。

 これはあらゆる分野に共通して言えることで――

 例えば反日主義者も嫌韓論者も、日本が嫌いで韓国が嫌いだという感情の前には、いかなる理屈もデータも物の数ではない(もちろん反論なんて聞こうとはしない)のは、よく知られたことである。


 それにしてもこの当該Uターン男性、人柄なんて全く知らないが「根性のある」人だというのだけは確かなようだ。

(しかしさすがに、「行事への参加自体は拒否していない」からと言って、本当に行事に顔を出していることはないのだろう……)

 並の人間なら、もちろんさっさと転居しているところである。


 そしてこういうニュースが流れるたびに、日本国民の

“こんな田舎は滅んでもいい”

“過疎化するのが当然”

“そりゃ人口なんて増えるわけないでしょ?”

 という「クソ田舎死すべし」論は勢いを増していく。

 もはや地方の再生は、いま生きている住民が全員死に絶えて無人化した後の“再入植”でしか、果たされることはないのかもしれない……

(そして私は、実際にこういう形で村落が復活していくのではないかと思っている。

 それもまた良し、ではないだろうか……?)

平成は31年4月30日で終わり-時代への適応力を失う皇室と宮内庁?及び新時代の元号の決め方について

 12月1日の皇室会議で、現天皇は2019年(平成31年)4月30日に退位し、翌5月1日に新天皇が即位することが決まった。

 つまり、平成は31年4月30日で終わり、翌5月1日から新元号になるのである。

(新元号は来年2018年夏頃に発表されると言われている。)


 一言で言って、残念である。

 当初言われていたように「平成は30年(2018年)12月31日で終わり、翌1月1日から新元号に切り替わる」となれば、どんなに良かっただろうか。

 安倍政権(安倍晋三首相)は、もちろんこうしたかったらしい。

 それがダメなら、せめて年度替わりと一緒の「平成は30年(2018年)3月31日まで、翌4月1日から新元号に切り替わる」としてほしかった。


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※しかし私は、「年」(1月~12月)と「年度」(4月~3月)が食い違うこと自体おかしいと前々から思っている。

 「年」と「年度」は一緒であるべきである。

 12月は「師走(しわす)」と言うが、それは「1年の終わりで、お師匠さんが走り回るほど忙しい時期」だからである。

 なのに現代の大多数の勤労者の間では「年度末(3月)」こそ「1年の終わり」なので、まるで年末が2回あるようなものだ。

 そしてどちらかと言えば、3月の方が真の(重みのある)年末になってしまっている。

 新年と新年度が一致しないというのは、心理的にあまり良くないのではないか。

 今回の決定で「平成は平成31年4月末に終わる」ことになったが、しかし年度で言えば「まだ来年3月までは平成31年度」なのだ。元号はすでに変わっているのに、だ。

 これって、改元の意味を失わせるなかなか重大な欠陥ではないか?

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 「平成は12月31日で終わり」に終始反対したのは、宮内庁だったらしい。

 年末年始は宮中行事が非常に多い、というのがその理由である。

 一方で「平成は3月31日で終わり」(宮内庁はこれを提案したとのこと)とならなかったのは――

 「2019年4月に統一地方選が予定されるので、“静かな環境”になりにくい」から。

 また、宮内庁の提案を飲んだら官邸のイニシアチブが失われるから、ということらしい。

(⇒ 毎日新聞 2017年12月2日記事:退位 日程、苦肉の策 官邸と宮内庁綱引き)


  だが、これ――

 ぶっちゃけ宮中行事なんて、国民の大多数にはどうでもいいこと/興味のないことである。

(あなたはそうでないかもしれないが、そういう自分がごく少数派であることは認めないわけにいかないはずだ。)


 また、4月から新しい元号になるからって、それが選挙に何の関係があるか。

 それで騒がしくなるなんて、ちょっとコジツケも過ぎるのではないか。


 こんなことが理由になるのなら、私だって提案くらいは簡単にできる。

 その提案とは、


天皇崩御(または退位)した年の12月31日で現元号が終わり、翌1月1日から新元号に切り替わる」と法律で決めることである。

 むろん12月31日でなく3月31日で終わるとする選択肢もあるが……

 これだけのことで宮中行事も選挙も何も関係なく、国民はあらかじめわかった上で(便利に)改元を迎えられるではないか?


 もはやすでに天皇自身の意志により、「天皇の死亡日=新天皇即位の日=元号切り替え(改元)の日」という公式は崩れたのである。

 だったら改元の日を、天皇の死とも譲位ともその他諸々の式典の日とも無関係にして何の不都合があるだろう。

 はっきり言って、こういう風にキリのいい日で元号を変えないというのは――

 現代という時代、国民の利便、そして国民の「何だよソレ」という感情に適応しようとしない態度としか言いようがない。


 むろん宮内庁というのは、もうその名前だけで「保守的で、時代に適応しようとしない」組織なのだろう。

(あるいは、時代に適応しないことこそ使命だと言うべきなのかもしれない。) 

 しかし本件で国民はまた、「平成は31年までで、それも3月末でなく4月末まで」と憶える負担を強いられるわけだ。

 これが「平成は30年12月31日まで」であれば、どれほどウケが良かったろうか。


 「一事が万事」とはよく言うが――

 これでまた「元号なんてメンドクサイ、もう使うなよ」と思う国民がますます増え、または思いを新たにするのは確実に思える。

 元号はただでさえ、「日本でしか通用しない」「西暦のように通算できない(大正2年から平成29年までは何年間かすぐにわからない)」というハンディを負っている。

 これを克服して広く使われ続けるには“国民に憶えやすくする”しかないというのに、宮内庁あるいは皇族方は、そのチャンスをフイにしてしまったわけだ。


 だいたい「一世一元の制」(天皇一代で一つの年号)というのは、たかだか明治以来の“伝統”である。

 その前は一人の天皇の下でも(災害や戦乱があったとき)コロコロ年号は替わっていたのである。

 どちらかと言えば、間違いなくそっちの方が“真の日本の伝統”である。

 これを思えば新時代の年号は、「とにかく20年間で終わる」というように決めてもいいはずだ。

(仮に明治時代にそう決まっていれば、今ではそれが“守るべき日本の伝統”と思われていただろう。)


 なお最後に、約1年前に書いた下記の記事でも言ったことだが――

tairanaritoshi-2.hatenablog.com


 これからはもう、契約書とか計画書に“元号だけ”を使うのは金輪際やめることである。

 そういうのは、近未来の自社社員その他に対する迷惑行為以外の何ものでもない。

 もしこれからも“元号のみ”を使うべきだと主張する人がいれば、その人には「元号テスト」を課すべきである。

 昭和36年から平成14年(2019年5月以降の年号を使っても良い)までは何年間か、

 大正13年とは西暦何年か、その人は今何歳か、即答できなければむろん落第だ――

 つまり、その人間に「元号だけを使え」などと言う資格はない。