新元号が「令和」となったことで懸念されることが、もう一つある。
それは、ここ1年間は新元号が決まってなかったからといって、控えていたかもしれないこと――
すなわち、またぞろ契約書や計画書なんかを「元号だけ」で書くという悪習に戻ることである。
私はこれについては、以前のブログ記事に書いた。
とにかくこれからは、よほど短い(1年以内)期間のものでなければ、元号に西暦を(カッコ書きで)併記すべきだ。
そうしないことは、後世や後輩に対する犯罪行為と言っても過言ではないと思う。
つまり、まだ「いや、契約書や計画書は元号だけ書くべきだ、それが正式だ」なんて言っている人間は――
日本の仕事の効率性を損なう国賊とみなすべきだ、ということである。
tairanaritoshi-2.hatenablog.com
私の言いたいことは上記の記事で尽きているのだが、しかしそれでも「元号だけ」派の勢力は依然強いと思われる。
そこで、別に「改宗」を促すわけではないのだが、その人たちにも元号・西暦併記を受け入れる「心理づくり」を提案してみる。
(決して「理屈づくり」ではない。これはあなたも感じるとおり、理屈の問題じゃないのである。)
それは、
西暦は便利だから「使ってやっている」
と思うこと、そういう心理的態度を取ることである。
上記引用記事でも書いているように、ガチガチの「元号だけ」派の人だって、日本史を元号で覚えているわけではない。
元号だけで日本史を学ぶなんて考えもしないだろうし、あえて言えばそんなことをするアタマだってない。
はっきり言って、「平成は平成31年4月30日で終わり。令和は5月1日から始まる」という記憶さえも、多くの人の中でいつまで保持できるか怪しいものだと思われる。
(つくづく、年度替わりの4月1日からの改元にしなかったのは罪作りである。)
では、なぜ日本史を元号で学ばないか。
それはもちろん、西暦の方が便利だからに決まっている。
とにもかくにも「通算できる」のが便利だから、そうじゃなきゃやってられないからである。
だったら仕事の場でも、全く同じことではないか?
なるほどほとんどの日本人はキリスト教徒ではないし、イエス・キリストの誕生日を元年とする(実際の誕生年は西暦元年ではないらしいが……)西暦を使う義理は、全くない。
しかしそれでも、便利だから「使ってやる」のだ。
別に西暦でなくても仏暦でもイスラム暦でも宇宙暦でも、通算できれば何でもよいが――
ただ今の世界で最もスタンダードなのが西暦だから、便宜のために使ってやっているのである。付き合ってやっているのである。
そう思えば、仕事の場で西暦を使うのもたいして腹は立たないだろう。
日本の正式な暦はあくまで元号、だから式典や改まった文書なんかでは元号を使う。
しかし西暦を「使ってやれば」便利だから、併記してやる。
この心構えで何の問題があるだろう。
日本が世界でただ一国だけ「元号」というものを使っているのは、それは人間でいう個性だからむしろ良いことである。
これを時代遅れとか不合理だとか言うのなら、欧米以外の世界中のあらゆる民族の特徴的な文化・伝統についてもそう言うべきである。
(しかし、往々にしてそんなことは言われない。
はっきり言って、そんなこと言う度胸がないからだ。特にイスラム圏に対して……)
昭和生まれ、平成生まれ、令和生まれ……
世界の中で日本だけそんな「世代区分」ができるのは、なんだかロマンチックではないか。味があるではないか。
そして確かに何十年かに一度、日本人はそういう風な時代の変わり目を持てるのである。
1970年代生まれ、80年代生まれ、90年代生まれなどという区分は、これに比べればずいぶん味気ない機械的なものだと思える。
(そして欧米人は、よくは知らないが、こういう世代区分に郷愁めいた感覚を抱くことはなさそうである。
「Xジェネレーション」なんて名称は付いているが……)
だから、「あくまで正式な暦は元号」と思いながら、功利主義的に便宜的に西暦を「使ってやる」という度量が欲しいものだと思うのである。