弁護士の山根二郎氏らのグループが、令和への改元は耐えがたい苦痛で違憲だとする訴訟を提起した。
これについては、「また左翼弁護士が勝てもしない訴訟を起こした」と感じる人が大多数だと思われる。
そして確かに、こういう提訴はよくあることだ。
広島カープの本拠地だった旧広島市民球場が取り壊される際には、その取り壊しは「憲法が定める国民の幸福追求権を侵害するから」という理由で差し止め訴訟が提起されたものである。
しかし私がこの上記引用記事を読んで最も印象に残ったのは、「元号制が耐えがたい苦痛って、こりゃまた大袈裟な」という感想ではなく、AbemaTVに出演した山根氏の次の言葉である。
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「天皇制に反対はしていない。
反対しようがない。
なぜなら憲法1条で象徴天皇が決まっているので、賛成・反対は無意味だ。
必要性がないということも言えるが、必然性がない」
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おしなべて元号制に公然と反対を表明する人には、確かに左翼が多いのだろう。
そしてだいたいの左翼は、護憲派は、天皇制にも反対のはずである。天皇制なんていずれ廃止すべきだと思っているはずである。
それはたぶん、山根氏も内心はそうなのだと思う。
ところが山根氏は、天皇制に反対しないという。
なぜなら「憲法に天皇のことが書いてあるから」、反対しても無意味だという。
いやあ、これ、全国の元号制・天皇制反対派の人たちに聞いてみたいのだが、こんなんでいいのだろうか。
これって、「憲法に書いてあるから、憲法を変えない限り天皇制は廃止できない。そんなのは論ずる意味もない」と言っていることになるのだが、
そしてもちろんその人たちの大部分は憲法改正に反対のはずなのだが――
みなさんは、これに同感なんですか?
何というかこれ、「護憲派の行き着く先」といった感じがする。
改憲に反対するあまり、今の憲法を永遠に護持しようとするあまり――
自分たちがなくすべきだと思っている天皇制を、自分たちの手で今のまま永遠に保存するという自家撞着に陥っている。
天皇制に賛成か反対かは無意味だというところまで行き着いてしまう……
そういう感想を抱かない人が、はたしてこの世にいるだろうか。
「法律を盾に悪いことをする人」のことを「法匪(ほうひ)」という。
それになぞらえれば「憲法に書いてあるから天皇制の賛否を募るのは無意味」とするのは、「法隷(ほうれい)」とでも言えるだろうか。
これじゃまるで、憲法は思考停止・思想停止の道具である。
なんだか「聖書に書いてあることは全て正しい」とする、アメリカで根強い聖書根本主義者(ファンダメンタリスト)にも似ている。
まるで日本の護憲論者は「日本のファンダメンタリスト」とも言われかねないではないか?
どうも私は山根氏のこの言葉を読んで、暗然というか「えーっ」というか、何とも言いがたい気分になってしまったのだが……
護憲派のみなさんは、ホントこの点をどう考えているのだろうか。
現憲法は永遠に改正すべきでなく、よって憲法とともに天皇制もまた永遠に続いてもいいと思っているのだろうか。
それこそが自分の本心なのだろうか。
少なくとも私には、そうは思えないのだが……