4月15日、パリのノートルダム大聖堂が炎上し尖塔は崩壊、有名なステンドグラスも粉々に砕けた。
どうもこの大聖堂は“フランス人の魂”のようなものらしく、フランス人とパリジャンは大ショックを受けているようだ――
と言っても、フランス人ならぬそしてカトリック教徒ならぬ日本人にとっては、大変なのはわかるがそのショックがどんなものかは全然わからないだろう。
エジプトのピラミッドが崩壊したというならともかく、他国の文化財の破壊なんて、よその国・よその文化圏の人にとってはそんなもんである。
しかし、パリ市民が燃える大聖堂を見つめながらみんなで賛美歌を歌うというのは、日本ではまず見られない光景だ。
たとえ東大寺や法隆寺が炎上したからって、日本人があんなことをすることはない。
(みんなでスマホで写真を撮ってる光景が、あなたにも思い浮かぶはずである。)
ところでこんな大事件が起こると、それに感化されて文化財に放火する人間が増えそうである。
ただでさえ放火というのはバカにでもできる犯罪なので、なぜもっと件数が多くないのか不思議に思っている人もいるだろう。
そしてもう一つ、私が不思議に思うのは――
かのイスラム国が盛んにテロをやっていた頃、なぜこういうキリスト教系文化財を狙わなかったのか、ということである。
今回の大聖堂炎上はテロでも放火でもなく、改修工事(の作業員)が原因なのだろう。
しかし今回の件で、大聖堂炎上がキリスト教世界に大ショックを与えるということがわかったのだから、イスラム国の残党あたりは今後はキリスト教建築・美術を狙ったテロを起こしてよさそうなものだ。
いや、別に今回の件がなくたって、彼らは教義上そういうことをやるべきだったのではないか?
これは有名な話だが、アフガニスタンのイスラム原理主義団体のタリバンは、あの「石窟の仏像」を破壊した。
どうしてそういうことを(カトリック総本山の)ローマやその他のキリスト教都市でやらないのか、疑問に思っていた人も多いのではないか。
もちろん、教会やイコンを破壊したって実利はないだろうが――
実利とか何とか言うより、教義上どうしてもやらねばならぬことではないのか。
繰り返して言うが、放火は殺人テロよりずっと簡単である。
たとえば服の下に可燃物を付けて美術館や教会へ行き、キリスト教芸術の至宝の前で我が身に火を付ける(同時に至宝へ飛びかかる)なんてことは、自爆テロができる人ならできるはずだ。
そこまでしなくても、単に建物に火を付けるのはただの浮浪者にだってできそうなことだ。
これは不吉な予言になってしまうが……
おそらくはここ日本でも、テロでなくても「そこらの一般人」が文化財に火を付けて炎上させる事件は、充分に起こり得る。
(実際、金閣寺がそうなったのは有名である――もう忘れられているかもしれないが。)
ノートルダム大聖堂がフランスの歴史であり魂の故郷だというなら、まさにそういうものを燃やしてやりたいと思っている人は、フランスの内外にたくさんいそうである。
同じように今の日本でも、この社会に恨みを持つ人間はそこらに溢れていそうではないか……