10月5日、フランスのカトリック教会の聖職者による性的虐待の調査に当たっていた委員会は、
「1950年以降、推定で21万6,000人の子どもたちが性的虐待の被害に遭った」
との報告書を発表した。
これは日本での扱いこそ小さいニュースなのだろうが、超ド級のニュースと言うべきである。
もっとも、「キリスト教聖職者による児童への性犯罪」というのは、欧米において近年とみに報じられるニュースではある。
それは珍しくも何ともなく、まるで定期的な風物詩のようなものだとさえ言えるかもしれない。
しかし、この「70年間で21.6万人の性被害者」というのは、実に震駭的である。
これはもう、「聖職者を見たら性犯罪者(しかも児童への性犯罪者)だと思え」と思われても仕方ない。
もし今の日本で、「仏教僧による性的虐待被害者は年間3,000人にのぼる」なんてことが判明すれば、凄まじい反響を呼ぶに違いない。
お寺の住職なんかは猛烈なバッシングを受け、明治初期以来、二度目となる廃仏毀釈が起きても当然だろう。
そして日本の仏教は、何十年も立ち直れない打撃を受けることになるだろう。
だがこれは、当のフランスでも、その他の欧米諸国でも同様で――
ここまでくれば欧米でのキリスト教信仰も廃絶とまでは言わないが、目立って衰退すると思ってもさほど的外れではないのではないか。
そりゃ神父様や司教様がこの有様では、信仰を保てる方がむしろおかしい。
欧米人の「キリスト教離れ」「信仰心の衰え」が言われてからずいぶん経つが、その流れはこの件でますます加速する気がする。
こんなことが明らかになってまだ教会通いの信仰を続けるというのは、その方がバカで無知で不道徳な人間だと、世間は見なすのではなかろうか。
そして欧米も日本のように、宗教が「結婚式と葬式のときだけの宗教」になってしまうのも、そう遠いことではない気がする。
さて、そうなると――
いよいよイスラム教こそが、この地球において人口的にも信仰心的にも第一にして最高・最強の宗教になることが、目前に迫っているのかもしれない。
まずイスラム教には、聖職者自体がいない。
これだけで「聖職者の腐敗」というリスクはないので、非常に有利な立場にある。
イスラム世界で聖職者に最も近いのはイスラム法学者であるが、彼らが遊蕩や性犯罪に大々的に手を染めているとは、少なくとも大きなニュースとして流れてはこない。
思えば、そもそもイスラム教がアラブ世界から中央アジアや東南アジアに広まったのは、イスラム教徒の「真面目さ」が大きな感銘を非イスラム教徒に与えたからとされる。
日本人としてはとかく、イスラム教徒がどこにいても座り込んでメッカの方角へ大げさに五体投地の礼拝をする光景を、「バカにして」「狂信として」見がちである。
しかし、それが真面目さの現れであり、本物の信仰心があるからこそできることだという点には、同意しないわけにはいかないだろう。
そういう真面目さが、真摯さが、(腐りきった)世の中の人の心には響くのである。
かつてキリスト教圏には、イスラム教徒のそういう真面目な信仰心に対抗する、真面目な信仰心があった。
何だかんだ言っても、キリスト教会はその中心であり支えであった。
しかしそのキリスト教会が、よりにもよって児童への性犯罪などという理由で信望を失ったらどうなるか。
教会という強力な支え棒があったばかりに、その支え棒が腐食して信仰を倒壊させる――
というピンチに、今キリスト教は瀕している。
その一方、初めからら教会のないイスラム教は、そんなピンチには無縁である。
もし私がイスラム教を広めようとする人物なら、今こそキリスト教信者は
「児童性愛の性犯罪者なんかを仲介にして神に接しようとする、不埒で背徳の人間である」
「キリスト教会に通うことは、そう見られても仕方ない人間と見なされるということである」
というようなイメージ戦略を打ち出すところだ。
そして、本当に――
キリスト教に失望したヨーロッパの白人たちが、「真面目で真摯な」イスラム教に徐々に改宗していくことだってあるかもしれない。
そんなに遠くない未来、キリスト教は、ブラジルを中心とする南米・中米そしてアフリカに点在するばかりのローカル宗教に縮小する可能性だってないわけではない。
「地球はイスラムの惑星」
「地球はコーランの響く星」――
そんな未来はSFではなく、今の日本人にはとうてい想像も付かないにしても、21世紀中に実現してもさほど不思議はなさそうである。