プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「静かな退職」=現代のサボリーマン 自成する階級社会

 職業に就いてはいるが、それに熱意があるわけではなく、必要最低限の仕事しかしないで過ごす――

 これを現代では「静かな退職」と呼ぶ。

 その静かな退職者は日本の労働者の60%に及ぶ、とも言われている。

(⇒ ABEMA TIMES 2024年8月25日記事:“静かな退職” 当事者に聞く働かない理由「頑張っても給料が上がらない…」「仕事してる感をいかに出すか」 雇用者の悩み「クビにはできない」“採用してはいけない人”を見抜くには)

(⇒ HRプロ 2024年8月14日記事:日本国内で「“静かな退職”をしている」と自覚する人は6割に。30代・40代・50代にも広がる“Z世代らしい”考え方)


 この「静かな退職」という用語と概念は、2022年にアメリカで誕生したと言われる。

 ところが日本ではもう何十年も前から、これと同じようなことを指す言葉があったと私は思う。それは「サボリーマン」という言葉だ。

 ある意味これは、日本発祥の概念ではないかとさえ思うのである。

 そしてまた、静かな退職とは何かと、さらに詳しく見てみると――

●「仕事のために生きる」のではなく、「最低限の生活をするために働く」。

●仕事とは単に、カネを稼ぐ手段に過ぎない。

 というのが中核的な意識のようだ。

 ここで私は、思うのである。

 これはZ世代がどうとか言うより、全世代にとって当たり前の意識ではないかと。

 人はなぜ仕事するのか、と聞かれて「生活のため」と答えない人がはたして何人いるのだろうかと。

 はたまた、こうも思うのだ。

 あなたがどんな仕事をしているのかは、私はもちろん知らないが――

 たとえば食品製造とか繊維業の卸会社とか、その中でのいろんな仕事といったものには、はたして通常の人間が全力投球するような魅力や面白味があるものだろうか、と。

 およそ世の中の仕事のほとんどは、人間にとって面白いとか興味を持てるといったものではサラサラないのではないか……

 と感じるのは、間違っているだろうか。

 そう、そこらの庶民って、ただ喰うがために働き、それで良しとする「静かな退職者」になるのが普通なのではないだろうか。


 と、ここでまた思うのは、昔のイギリスに代表されるような「階級社会」というものである。

 現代日本も階級社会化が進んでいる、これからさらに進む、と言われているが――

 そのかなり有力な駆動要因として、静かな退職の広まりがあると思われる。

 つまり、そこらの庶民は熱意もなく最低限の仕事をしてただ食っていけるだけの生活で十分だ、その範囲を超えて仕事するなどバカでコスパが悪いと思う一方――

 そうでない者――これは現代版の貴族とも呼べる――は、最低限のラインを(大幅に、とは言わずとも)超えて仕事をしようとする。

 そのどちらが重んじられるか、好意を持たれるかと言えば、もちろん貴族の方に決まっている。

 この貴族が高い評価と好感を持たれ、庶民を尻目に昇進昇給し、社会の上層に上る一方――

 庶民の方は(望みどおり)最低限のランクに留まり続けることを、誰がおかしいと思うだろう。
 
 これは確かに自然なことであり社会正義でさえあって、要するに「自成する階級社会」かつある意味で「ウィン-ウィンの関係」みたいなものだ。

 社会はそこらの庶民と貴族に分かれ、貴族は庶民を見下し、庶民は貴族とは別世界に生きる。それで良しとする。

 これは世界中で何百年にもわたり普通であったことでもあるし、現代と近未来の日本でそれが復活するとしても、何の不思議もないことだ。

 だからこれからの団体なり企業体なりというものは、そこらの庶民は全て静かな退職者なのだ、それがデフォルトなのだ、しかし中には貴族もたまにいる、という想定で採用活動するのが賢明というものだろう……