職場の飲み会である「飲みニケーション」は、極めて大事だと思われていた時代があった。
酒が飲めない人間はつまらない奴と言われていた時代があった。
居酒屋で職場の人間が集まって飲み会をやる光景は、日本の職場の象徴の一つだった。
テレビの(酒の会社の)コマーシャルでも、そんな光景がどれだけ描かれてきたかわからない。
しかしそれも、もはや時代劇の世界になったようである。
このたび発表された日本生命の調査では、「飲みニケーション」について「必要」または「どちらかと言えば必要」と回答した人は38.2%で、去年より16.1ポイントも減ったという。
(⇒ テレビ朝日 2021年11月23日記事:職場の「飲みニケーション」必要は去年よりも大幅減)
つまり多くの人にとって、コロナ禍で飲み会がなくなったことは福音だった。
職場の飲み会がなくなったのは、コロナ禍において「良かったこと」の筆頭くらいに数えられるだろう。
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さて、飲みニケーションが必要なのか有益なのか絶対悪なのか、それはさて措く。
しかし感じずにいられないのは、日本人がますます仕事と職場に敵対的になっている、ということである。
日本人が世界で最も、と言っていいくらい「いやいや仕事をやっている」のは、もう有名な話だ。
そうなるとたぶん、世界で最も「職場の人間と職場以外で付き合いたくない、話したくもない」と思っている人種だ、ということにもなるはずである。
これは、伝統的な日本人のイメージとは真逆になる。
日本人と言えば職場への忠誠心が強く、戦時中であれば玉砕や特攻をも辞さない固い団結心を持っている――
それが戦後の復興と経済大国化にも発揮された、とかいう話は人口に膾炙しているだろう。
しかしもう、日本人はそんなことはないのである。
職場で団結どころか仕事自体が嫌で、職場の人たちと職場外で口をきくのもまっぴらなのである。
一言で言うと、日本人はバラバラになった。
地域の近所づきあいが解体した次は、職場の人間づきあいが解体しようとしている。
北朝鮮に倣って言えば、日本は「日本個人主義人民共和国」みたいなものに向かっている。
しかし、かといって、日本人という人間から他人と繋がりたいという心がなくなったのではないだろう。
地域の繋がりも職場の繋がりもなくなったのであれば、
その繋がりを求める心は(昔の社会学的に言えば)国家というものに向かうはずである。
だが実際には、そうはなっていない。
ではどこに向かっているのかと言えば、その一端が「ユーチューバーへの投げ銭」とかに見られるのではないだろうか。
赤の他人の動画を見て、それにカネを払う――
これは、これこそ「ニューエコノミー」と言っていいような、昔の人間には理解しがたい現象である。
しかしそれは現実に起こっており、これで莫大な収入を得る人もいる。
これは世の中の人間が、ますます「身近な人より遠くの人」に繋がりを求めるようになった現れではないだろうか。
繋がりを求める人間の心の量が、昔と今で大して変わらない一定値であるとすれば……
身近な地域にも職場にも、そして国家にもそれが向かわなくなったとき、確かに向かう先は「遠くの赤の他人」にしかない。
もちろん、ただの遠くの赤の他人にではなく、その中の「有名人」や「話題の人」「評価が高い(と言われている)人」に向かって流れていく。
いわゆるコロナワクチン陰謀論にハマる人が多いというのも、これが基盤になっているのではなかろうか。
おそらく、日本個人主義人民共和国の行く先は、新時代の「貴族制」に至るものと思われる。
身近な地域でも職場でもなく――むしろそれらをうざったい・しょうがない、最低限に付き合うしかない悪として感じながら――、評判の高い人を支持したり賛美したりする。カネまで払う。
そういう貴族制が庶民に支持され作り出されるのが、21世紀の日本の姿なのかもしれない。