8月6日、広島は快晴で原爆式典は無事開催された。しかしもちろん、熱中症アラートは出ていた。
そして8月9日の長崎原爆式典は、台風とそれに伴う豪雨が予想されるため屋内開催に変更、岸田首相の出席も(長崎市からの要請で)中止となった。
この8月上旬に西日本へ台風と豪雨が来る、というのは珍しい。
が、そういうことがこれからは普通になるのではないか、とは誰もが感じるところだろう。
6月からの異様な暑さと異様な豪雨は、もはや毎年とは言わないまでも隔年ぐらいには普通のことになっている。
まさに、withコロナならぬwith異常気象。
そのwith異常気象の時代の8月上旬に、屋外式典を開催する――
そういうことが可能なのか妥当なのか、いよいよ真剣に向き合わざるを得なくなってきた。
まず暑さの点からであるが、もうこの時期は晴れなら晴れで毎日必ず熱中症アラートが出ている。
あれだけ外を出歩くのは控えよ、激しい運動はするな、と言っておきながら大規模な屋外式典をするというのは、それは矛盾としか言いようがない。
どれだけ熱中症対策をしていようと、人間死ぬときは死ぬのである。
(⇒ 2023年7月31日記事:部活帰りの女子中学生、熱中症で死亡-夏の「学校部活」運動はもう止めよ)
ところが、だ。
この季節の屋外部活動、甲子園の高校野球はもう止めよ、もうできない、という意見は多く聞く。
命と部活動・高校野球と、どっちが大事だという意見はとても多い。
しかしどうも、原爆式典は別のようだ。
どうも、よっぽどのことがなければ原爆式典は屋外でやるべきだ・やらねばならないというのが、大方の人間のコンセンサスであるかのように見える。
これは、全国戦没者慰霊式などが屋外で行なわれるのが普通であることを考えると、かなり興味深い相違だろう。
原爆式典の出席者は座っているだけで運動しないからいいだろう――
なんて言ったって、とにかく外にいるというだけでツラい。
そして当然、動くスタッフもいれば警戒に当たる警察官もいる。
「今の暑さは昔の暑さと違うから、今までのやり方は通用しない・不適切だ」というのは、もはや社会の公論と言って過言ではない。
しかしやはり、いくら暑いからと言って熱中症の危険があるからと言って、それだから原爆式典を屋内でやることにする――
というのは、いまだその公論の例外である気がする。
「あの日も暑かった」「原爆にやられた人のアツさはこんなもんじゃなかった」というのは、今の時代なら「根性論」の一言で蔑視される意見のはずなのだが、しかし原爆式典に限ってはそうでない気がする。
これもまた興味深い点であって、おそらくは実際に死者が出なければ変わらないという、日本でよくあることの一例ということになるのだろう。
次に、台風と豪雨。
こんなものが来るとわかっていれば、屋外式典なんて当然に中止である。
いや、式典自体が「そんなことやってる場合か」で中止にしなければ、むしろ世間から批判される可能性大である。
しかしここでも原爆式典は例外であって、これを中止するなんて大部分の日本人にとってはいまだ「あり得ない」選択だろう。
台風と豪雨が来るとわかっているのに、その対策に万全を期さねばならない――と誰もが考えるのに、「ノンキに」式典を開催する。
大勢の人を集め、大勢の人を手配する。
そんなヒマがあったら、その人員を災害対応に振り向けるべきなのに……
しかし、普通なら世間の猛批判を浴びるところ、ここでも原爆式典だけは例外なのだろう。
今回の長崎市は、首相の来訪を断った。
これは長崎市にとっても首相にとっても、妥当というか当然の判断だろうと思う。
お互い激しい風雨災害が来るとわかっているのに、そんなこと受け入れる/出席するヒマはないはずなのだ。
だがここでも、「こんな大事な式典に首相が出席しないとは何事か」と怒り失望する人は多いだろう。
これも一種の根性論であり、「誰々が出席しないとはけしからん」という老害的感性であるはずなのだが、やはり原爆式典は例外なのだろうか。
さて、しかし――
8月の6日と9日ごろに猛暑・台風・豪雨が西日本を襲うというのは、もう毎年または隔年のことになる可能性が高い。
そうなるとやはり、原爆式典を「原則として」屋外でやるというのは見直さざるを得なくなるだろう。
それは真夏の屋外部活がなくなるのと一緒で、多くの人を嘆かせ憤らせるかもしれないが……
しかしそれがwith異常気象であり、ニューノーマルというものではないか。
昔の暑さと今の暑さは違い、昔の気象と今の気象は違う。
今までやってきたことだから今後も続けるというのは、有害な老害思考である。
この現代の「常識」がある以上、さしもの原爆式典もここ10年以内くらいで屋内開催に移行するのではないか、と予想しておく。