3月1日、埼玉県戸田市の市立美笹中学校に侵入した男子高校生(17歳)を、男性教員(60歳)らが阻止した。
この17歳は別にこの学校の卒業生というわけでもなく、
「無差別殺人への憧れがあった(過去の無差別殺人事件に憧れがあった)」
「誰でもいいから殺したかった」
などと、いかにも言いそうなことを供述しているという。
また、この近辺で頻発していた残虐な猫殺しについても、「自分がやった」と供述しているという。
(⇒ 読売新聞 2023年3月2日記事:埼玉の中学で切りつけ、逮捕の高校生「無差別殺人への憧れあった」…刃物を複数所持)
さて、この17歳はむろん「少年」である。
であるから少年法が適用になり、保護観察になったとしてもまたすぐシャバに出てくる。
いや成人であったとしても、殺人未遂は殺人でないので、ほんの数年でまたシャバに出てくる。
いったいこれはどうにかならないのか、こんなのをシャバに出すなんてどうかしてるんじゃないのか、というのが普通の人間の感覚だろう。
まあ、日本人の圧倒的多数が「死刑存続支持」なのも無理はない。
それどころか、死刑の範囲の拡大を支持する人の方が、きっと多い。
猫を殺すだけでもそうすべきだと思う人は、大勢いるのではあるまいか。
しかし私がこういう事件のたびに思うのは、「親ガチャ」の逆の「子ガチャ」についてである。
いったい、こういうハズレくじの子どもを引かされた親の心情はどんなものなのかと、そっちの方が気の毒になるのである。
皆さんはもちろん、こんな子どもが「教育」だの「躾」だの国の施設での「矯正」だので「治る」なんて、全然思ってはいないだろう。
猫をいたぶり殺して喜ぶ人間、人を殺したくてたまらない人間、大量殺人に憧れを持つ人間というのは、必ず生まれてくるのである。
当然その人間は、「治る」ことなどないのである。
これは言うまでもなく、そういう人間を我が子として引き当てる親が必ずいることを意味している。
誰が引き当てるのかは、完全なる偶然である。
あなたがそんな人間でなかったことは、偶然に過ぎない。
あなたの子がこんな人間でなかったことも、偶然に過ぎない。
しかし世の中では、どこかの誰かがこんな子どもを引き当てているわけだ。
この子ガチャというものの残酷さとリスキーぶりは、まさにたとえようもない。
まさに、神も仏もない。
たぶんこの、「子なんか持ったらどんな子に育つかわからない、そんなリスクは負いたくない」というのも、非婚化少子化の一因ではあるはずである。
ただこれには、世の親たちの慰めとなる面がないでもない。
いったい我が子がバカ息子やアホ娘であろうと、はたまたどうしようもないゴクツブシであろうと、こんなハズレクジを引くことを思えば、どれだけマシであることだろう。
別に、説教などするつもりはないのだが……
我が子がこんなハズレクジでなかっただけでも、世の親たちは幸運に感謝すべきなのかもしれない。
もっともこんな考えは、「上見て暮らすな、下見て暮らせ」式の差別的な考えだと、批判されるのかもしれないが……