昨年11月29日、東京都立大学キャンパス内で同大学の宮台真司教授(63歳)が一人の男に襲撃されて首を切られ、全治1か月の重傷を負った。
そして今年2月1日、実はその犯人41歳は、12月16日に首吊り自殺していたことが判明した。
警察が防犯カメラの録画画像をオープンにして公開捜査に踏み切ったのが12月12日のことであるから、わが身に司直の手が及ぶことを恐れて(覚悟して)自殺したのではないかとも言われる。
なお、犯人の残した遺書には、家族や知り合いに迷惑をかけたとは書いてあったが、襲撃事件については直接触れていなかったらしい。
そしてまたこの犯人、お定まりのごとく引きこもり生活を送っていたらしい……
(⇒ デイリー新潮 2023年2月1日記事:「宮台教授」襲撃事件、別宅でとっくに死亡していた41歳「ひきこもり男」の家庭環境)
さて、容疑者がわかっていながら逮捕する前に自殺されるというのは、警察にとっては無念ではあり、失態とさえ言われることもあるだろう。
だが、我々の住む「社会」にとっては、これは勝利したも同然の結果だと言えないことはない。
なにせ、凶悪な事件を起こした犯人が、自分で勝手に自分を殺処分してくれるわけである。
国としては、裁判の費用も手間も――つまりは税金の使用が――省かれるのである。
もちろん、刑務所で長々と彼を養う費用も――これも税金――ゼロにできる。
また特に、凶悪犯の近所に住んでいる住民・国民にとって最大の恐怖は、死刑でなければその凶悪犯がいつか釈放されて舞い戻ってくることだろう。
これもまた、彼が死んでしまえばそんな恐れもゼロになる。
もし社会が人間の形をとっているならば、Vサインをしても自然な感情の発露、ということになるだろう。
そりゃこれで「事件の真相が闇に葬られた」「真の動機を解明することができなくなった」のは確かだが――
そんなもん知ってどうするの、どうにかなるの、
という疑問は正当と言っていいのではないか。
そんなのはきっと、ワイドショーのネタや雑誌記事・ネット記事を増やす役にしか立たないと言われれば、そのとおりなのではあるまいか。
凶悪犯の自殺は、税金の節減に貢献する。国の財政に貢献する。
何よりも、国民の安全・安心に貢献する。
つまるところそれは、善良なる国民とその社会の大勝利である――
こういう考え方を間違いだとするには、どういう理屈をもってするべきだろうか。