日本犯罪史上屈指の凄惨さと残酷さで知られる「女子高生コンクリート詰め殺人事件」。
たとえ事件の詳細は知らなくても、名前だけはほとんどの日本人が知っているだろう。
(これと肩を並べる事件は、「両親を金属バットで殴り殺した」事件である。
あれ以来、「親殺し」とくれば打てば響くように「金属バット」と連想するのが普通になった。)
その犯人である少年たち4人のうち、Mという45歳の無職男が「殺人未遂」容疑で逮捕されたらしい。
彼ら少年4人が、今は自由の身になっていることはよく知られていたが――
今回の報道を聞いて、衝撃的と思う人と案の定と思う人とでは、後者の方がはるかに多いと思われる。
実のところ、彼らはいずれ何かやらかす、と思っていなかった人って、想像を絶するようなウブと言っても過言ではないだろう。
そう、誰もが思っているように、人間の性格が変わるわけはないのである。
(上記引用記事を見ると、変わっていないどころか、いっそう「ヘン」になっているように思えるが……)
それにしても、さてもさても、弁護士や裁判官というのは因果な商売である。
彼らとて、あれほど残虐なことをした少年4人が更生するなんて、全然思っていなかったろう。
いくらなんでも、そこまでヌケサクではないだろう。
彼らには、いずれ4人が(少なくともそのうち一人くらいは)また殺人か傷害事件を起こすだろうくらいのことは、最初からわかっていたはずである。
私だったら、アホらしくってとてもそんな仕事はやっていられない。
それにしても思うのは、もし今国民投票をやったとすれば、少年法はほぼ間違いなく廃止されるだろうということだ。
そしてもし当時国民投票したとすれば、集団殺害者の少年4人は死刑になっただろうということだ。
それなのに、憲法改正は国民的話題・議題になると言うのに、刑法改正や少年法廃止はいっこうに政治議題に上がらないというのは、かなり奇妙なことである。
もし今「少年法廃止」を掲げて選挙戦を戦えば、個人でも政党でもけっこういいとこ行くと思うのは、私だけではないだろう。
そしてそれは、文句なく悪いことだとされている。
「それじゃ人民裁判だ」と言いさえすれば、その後に何も書かなくても「それ」を非難したことになる。
「人民裁判は悪」というのは、それほど国民的に浸透している。
しかし、こういう事件を――さらには犯人たちが懲役10年も課せられなかったということを――見聞きすれば、
「法律とか裁判に任しとくからこうなるんだ。オレらに裁判させろ。死刑にしてやる」と庶民が感じるのは、まったく当然の成り行きだろう。
ではどうすれば良いかということだが、二つばかり思うところはある。
一つは、地方分権を名実ともに進めるということである。
つまりそれは、地方ごとに(自治体ごとに)少年を特別扱いするかしないか、死刑があるかないかを決められるようにする、ということだ。
これは別に突飛な発想ではなく、周知のとおりアメリカなどでは州ごとに法律や刑罰が違うのである。
それでなくて何の地方分権か、というのは、アメリカ人なら普通に感じるところだろう。
もう一つは、本当に死刑にするかしないかについて国民投票制にするということだ。
あまりに残虐な殺人事件の場合、検察は死刑を求刑して国民投票に委ねることができるようにする。
もちろん弁護側も検察側も、テレビ放送などで平等に国民に訴える時間を与えられる。
(NHKなんて、まさにこういうことのためにある放送局ではないかと思う。)
投票は、ちょうど現存の制度である「最高裁判所裁判官の国民審査」のように、衆議院選挙ごとにやればいいだろう。
これはまさに、弁護士の腕の見せどころである――
が、きっとこうすればほぼ全部のケースで死刑になるものと思われる。
「面白いから死刑にしてやれ」と投票する人が多そうだからだ。
しかしそれを言えば、最高裁の国民審査だって――
大部分の人はワケのわからないまま、またはどうでもいいまま白紙で投票し、今まで誰も審査で罷免されたことはないという現実を続けてきたはずである。
圧倒的大多数の国民は、極悪犯罪者が更生するなんて(健全にも)思っていない。
少年だから更生の余地があるのではなく、少年だからこの先もずっと更生しない、と(常識的に)思っている。
その国民の意思を反映しないのが法治国家だと言うのなら、それは少々どころではない大問題ではあるまいか。