さて、社外取締役というのが「民営の天下り制度」であり威信材・勲章だということの他に、もう一つ思うことがある。
会社法が2021年の改正で「上場企業の取締役は、その3分の1以上が社外取締役でなければならない」とまでしたのは、
端的に言えば「性善説はダメだ、性悪説で行かないと」というのが理由である。
「中の人」だけでは悪いことが行われようとしてもナアナアで済ませてしまう、牽制機能が働かない、だから人間関係のしがらみのない部外者を取締役に入れるのだ、ということである。
これは一見、理に叶ったことのように見える。
そのとおりだと誰もが思うように感じる。
しかし、考えてもみよう――
「中の人でない第三者が、部外者が、その会社のことを身を入れて考える」
などというのは、それこそ究極レベルの性善説ではあるまいか。
いったい誰が、こんなことを本気で信じられるだろう。
ましてやその社外取締役というのが、二社か三社かそれ以上の掛け持ちであればなおさらである。
そんなことがあるはずはなく、そんなことができるわけがない。
これが健全な常識というものだ。
だいたい、もしその会社の経営が傾いたとき、この社外取締役というのは何らかの責任を取るだろうか。
それどころか責任を感じることさえなく、むしろヘマしやがってと怒るのではないか。
(実際、その会社の人は社外取締役のところへ「ご迷惑をおかけしました」と謝りに行くと思われる。)
社外取締役というのがそういうものだとわからない人が、本当にこの世にいるとは思われない。
しかしそれなのに、性善説ではダメだとされながら、
「社外取締役という赤の他人が、本気で身を入れてその会社の経営を見る」
なんていう究極の性善説が、国の法律の基礎となっている。
そもそも今まで不祥事を起こしてきた無数の会社で、社外取締役がどんな役割を果たしていたのか、どんな責任を取ってきたのか、一覧表にして見せてほしいと思うのは私だけではないだろう。
それにしてもこの性善説に基づく高価な「威信材」の購入に、当のその会社の労働者は何を思っているのだろうか……