自殺の名所として知られる東尋坊(福井県坂井市)で、際立って残虐・酸鼻な事件が起こった。
39歳のとび職の男と17~19歳の少年6人が、20歳の男性を海へ飛び降りさせて殺害したのである。
しかもその前に、この男性は27時間にわたり
●ハンマーで歯を折られる
●火の付いたタバコを鼻に入れられる
●脚を車で轢かれる
●木製バットやフライパンで殴打される
●ハンマーを口に入れて引っ張られ、歯を折られる
といった、血も凍るような暴行を断続的に受け続けてきたという。
(⇒ 読売新聞 2019年12月17日記事:歯をハンマーで折り、鼻に火の付いたタバコ…東尋坊で少年ら7人「はよ落ちろ」)
(⇒ 京都新聞 2019年11月24日記事:東尋坊の崖「はよ落ちろや」 自殺に見せかけ飛び降りさせる 殺人容疑で少年ら7人再逮捕)
さて、こういう事件が起きるたびに、「少年法は廃止すべきだ、せめて厳しく改正すべきだ」という声がネットを満たす。
39歳のとび職の男は言わずもがな、こんな少年どもはまとめて死刑にしてしまえというのが、おそらくは9割の人の意見ではあるまいか。
(だから日本では、いつまで経っても死刑廃止論が優勢にならないのである。)
もちろん、どうせ死刑にするのなら年寄りよりも少年こそ死刑にする方が、社会にとって利益がある。
老い先短い老人を死刑にしても、社会はあまり得るものがないが――
前途の長い少年を死刑にしておけば、社会は莫大な(安心・安全という)利益を得られるからだ。
だがしかし、少年法の廃止論や改正論はほとんど国民の総意と言っていいほどなのに……
それを主張する政治家や政党は、なぜかほとんど見当たらない。
もしそれを主張する政治家・政党が出てくれば、たぶんN国党より支持を集めて当選しそうなのに、である。
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おそらくこのままではずっと、少年法は改正もされず今のまま続くのだろう。
しかし一つ、凶悪少年たちを死刑にできる方法がある。
それは非常に迂遠と思われるかもしれないが、「地方分権」を進めることだ。
地方分権とは、一言で言えば「地方によって法律が違う」ということである。
すなわち、青森県では少年も死刑になるが、鳥取県では少年は死刑にならない(今の少年法を継続する)、などという違いがあることである。
これは当たり前のことで――
例えばアメリカで、アイオワ州には死刑制度があるがネブラスカ州では死刑が廃止されている、などという話を聞いても、我々はちっとも不思議に思わないものだ。
(なお、この例は適当に書いたものである。あしからず。)
逆に言うと、地方によって法律が違わないのなら、それは地方分権では全くないと言えると思う。
同じ法律を施行しながら地方ごとの特色あるやり方を探せ・示せ、と言ったって、そんなのは単なる小手先のナンチャッテで終わるに違いない。
近畿地方(近畿州)では現行の少年法を維持し、北陸地方(北陸州)では少年法を廃止する。
東北州には死刑があるが、四国州では死刑は廃止されている。
これこそ真の地方自治だと私は思うのだが、違うだろうか。
だがおそらく、日本人の過半数は、私と違う意見なのだろう。
たぶん日本人の過半数は、地方によって法律が違ったり死刑があったりなかったりするのは、決して気に入らないのである。
それどころか、そんなのは許せないという義憤を感じたりするのである。
つまり日本人は本当のところ、真の地方自治なんて望んでない――
全国どこでも同じ取扱いであることこそ、真に望んでいるのである。
だから、昔はけっこう唱えられていた道州制導入の声が近年はパタンと止んでいるのも、結局は地方自治なんて望まれていないということの帰結なのだろう。
よって、もう一つの帰結として、(当然ながら全国一律に施行される)少年法は、いつまで経っても改正も廃止もされないということになるのである。