5月6日に行われた関西学院大学と日本大学(どちらも大学アメフトの名門)のアメフトの試合で――
日大側の選手が関学側のクォーターバック(チームの司令塔みたいな役)に背後から殺人タックルを仕掛けて全治3週間の大怪我を負わせたことが、問題になっている。
確かに動画を見ると、ボールを手放して全く無防備な(相手からタックルされる理由のない)状態で背後から猛烈なタックルを喰らっており、これは「ボールを手放したことに気づかず、勢い余って」などというものでないことがわかる。
報道を信じるとすればこれは日大監督の指示によってやったものであり、当の監督は公の場に姿を見せてこそいないものの、
「選手も必死。あれぐらいやっていかないと勝てない。やらせている私の責任」
と周囲に語っている(うそぶいている?)らしい。
しかしまぁ、いつもいつも思うのだが――
いったいぜんたい何でまた、世間の人たちは「たかがスポーツ」「たかが部活」に勝つことに、それほどまでに真剣になれるのだろう。
こういうことを言うとたぶん叩かれるのだろうが、私はスポーツや部活の勝利というものに、ほとんど何の価値も意味も感じない人間である。
意味があるのは、本物の戦争(企業戦争も含むが)に勝つことだと思う人間である。
現代はきっと、スポーツの価値がバブルに達している時代だろう。
ほとんど誰もがスポーツには、スポーツに勝つことには、素晴らしい意味と価値があると感じている。
(あるいは、そういう雰囲気に呑まれている。)
少なくとも共産主義者・社会主義者であるならば、野球の選手やボクシングの選手などが何億・何十億・何百億円の報酬を普通に得ていることを、激しく糾弾しなければならないはずだ。
だがもちろんそんな意見は、テレビはおろかネットを探してさえロクに出てこない。
しかしたいして考えなくてもわかることだが、そのスポーツで誰が勝とうとどこのチームが勝利しようと、あなたや私の人生には何の関係もないことである。
スポーツや部活の勝利そのものに、何の社会的意義があるか。
アメフトやサッカーに勝つことが、社会にとって何の意味があるか。
この問いに答えられる人は、そうはいないはずである。
おそらく私が普通のスポーツよりプロレスが好きなのは、こういう意識が根底にあるからだろう。
なんでもプロレスラーの中には、
「自分のやっていることは世の中にとって何の意味もない」
「プロレスラーは社会にとって意味のある職業ではない」
と思い悩んだりコンプレックスに感じている人もいるらしい。
しかしそれを言うならば、全てのスポーツが「本当は」世の中にとって何の意味も意義もないはずである。
棒で球を打って飛ばすこと、穴に入れること、
足で球を蹴ること、氷の上で滑り踊ること、
これらがいったい社会にとって、あなたにとって、何の意味があるか。
ましてやプロでもない学生の試合の勝利に、どれだけの意味があるか。
だがそれなのに、相手選手を殺人タックルで脱落させてまで勝利を求めるチーム監督がいるのである。
これってそんな、必死になるようなことなのか。
きっと未来の社会から見れば、こんなのははなはだ馬鹿げた原始人の感性に見えるだろう。
そう、今はまだ信じられないかもしれないが――
未来の世界では、スポーツの価値は(バブルが弾けて)大幅に下落していることが予想される。
今回の日大監督ばかりか、スポーツや部活においてそれほどまでして勝ちたいという執着・情熱が、原始部族の狂信シャーマンみたいに不気味で滑稽なものだとみなされる時代がやがて来るだろう。