2016年3月27日の大相撲春場所千秋楽で、横綱・白鵬(はくほう)が「変化」で横綱・日馬富士(はるまふじ)を破り、36回目の優勝を決めた。
私は相撲を全然見ない人だが、「変化」とは「相手の体を受け止めずに躱(かわ)し、そのまま相手を土俵外に出すに任せる」戦法らしい。
そしてその一番の動画も見たが、確かに「これが横綱同士の優勝決定戦か」と素直に思う、あっけなさ過ぎる勝負であった。
会場からは「勝てば何でもいいんか!」「恥を知れ!」「カネ返せ!」「そんなに懸賞金が欲しいんか!」などという大ブーイングが飛び、白鵬は「あれで決まると思っていなかった。本当に申し訳ないです。すみません」と涙したとのこと……
白鵬は、たまに大日本プロレスを見に来る人としてプロレスファンには知られている。
そして私もプロレスファンなので、この件について思うことを書こうと思う。
プロレスファンならぬ総合格闘技ファンならば――
この手の「あっけなさ過ぎる」試合、「一方的すぎて面白くも何ともない」試合、「ずっと膠着して、いい加減飽きる」試合を見ることには慣れている。
期待の大一番でそういう試合になることも珍しくないし、直近の例であれば「桜庭和志 vs 青木真也」がそうだったろう。
もちろん総合格闘技ファンは、そういう試合にブーイングを送りはする。「カネ返せ!」と思いもする。
しかし同時に、まさにそういう試合があることこそ、その試合(競技)が真剣勝負だという証なのだということも重々わかっている。
あの伝説の「猪木 vs アリ」(アントニオ猪木とモハメド・アリの異種格闘技戦。1976年6月26日)の真相は諸説紛々なのではあるが――
あれが真剣勝負(事前に結末を決めてない勝負)だと主張する人の最大の論拠は、“真剣勝負でないとしたら、あんな面白くない=膠着した試合になるわけがない”というものだろう。
よって、大相撲がもし掛け値なしの真剣勝負であるならば、今回の「白鵬 vs 日馬富士」戦の結末は、当然あり得ることである。
大一番でそういう試合が全然ないとすれば、それは大相撲が真剣勝負でない証である。
だいたい白鵬が本当に心から優勝を目指しているのなら――
禁じ手以外のあらゆる手段を使っても優勝したい、と真剣に思っているのなら、「変化」で勝とうとすることに何の不思議があるだろう。
それをやったら大ブーイングを受け、「横綱なのにあんな取り組みをやるべきではない。堂々と正面から受けても勝てるはず」などと言われては、全く浮かぶ瀬がないというものだ。
要するに今回の白鵬を批判する人は、「横綱はプロレスをやれ」と言っている。
この場合の“プロレス”とは、世間一般が思っている意味――
どんなに激しい試合だろうがそれは作りものであり、結末はあらかじめ決まっている。
そして、わざと相手の技を受ける(相手の技に自分がかかるよう協力している)。
――という意味とほとんど同じである。
もちろんプロレスの“大一番”は、盛り上がるものと決まっている。(そうならなければ、それはレスラーの失敗なのだ。)
横綱は「ただ単に勝つだけでなく、勝つ内容が大事だ」と言うことは、プロレスラーが言われていること/自らが言っていることとどこが違うのだろう。
要するにそれは、「大相撲はプロレスになれ」と言っているに等しい。
そして思うに、それは“正しい”思い方・言い方なのだろう。
カネを払って見に来させるスポーツは、すなわちほとんど全てのプロスポーツは、面白い試合をしなくては(作らなくては)ならない。
そうでなければ観客の要求に応えらず、ブーイングまたは無言の批判を浴びる。
まさにこれこそが、現代のプロレスが誕生した理由である。
今の新日本プロレスは“強さ”の追求を止め“かっこよさ・面白さ”の追求に走っている――
という意見もあるが、それでも今でも「キング・オブ・スポーツ」の看板を掲げているのは故(ゆえ)ないことではない。
プロレスは、観客の要望に応えようとするプロスポーツの、窮極の到達点とも言えるからである。
(“なれの果て”、という言い方もむろんできる。)
はっきり言って、もし白鵬が今回のことを“反省”して“横綱らしい”試合をしようとするならば、
それは彼がプロレスラーに近づくことであり、大相撲にプロレスの要素が入ることである。
そしておそらく、ファンのことを考える限り、プロスポーツが幾分なりともプロレス化するのは避けられないことなのだ。
大相撲ファンは、当然それでいいのだとは言うまい。
しかし実際には、望んでいるとしか解しようのない批判やブーイングを浴びせている。
ファンの心が複雑なのは――いささか分裂症気味でさえあるのは、別にプロレスに限った話ではないようである。