プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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新学期いきなりクラス分けやり直しで臨時休校-「人事・人間関係AI」の必要性

 4月8日、滋賀県守山市教育委員会は、守山南中学校3年生(11クラス・381人)のクラス分けをやり直すため、始業式を取りやめて臨時休校にすることを発表した。

 クラス分けで「生徒指導上必要な配慮ができていなかった」からだという。

(⇒ 京都新聞 2024年4月8日記事:【速報】新学期が始まった途端、中学校でクラス分けやり直し 「生徒指導上配慮できてなかった」3年生を臨時休校)

 もちろん誰もが思うように、「必要な配慮」とは「仲の悪い者同士」「いじめっ子といじめられっ子」を一緒のクラスにしない、という意味だろう。

 それをうっかり、一緒のクラスにしてしまったのだろう。

 しかしまあ、こういうことを「どういう経緯でこうした“不手際”が起きたのか、関係する教員などに聞き取りなどを行い、再発防止に努める」なんて言わざるを得ない教育委員会も大変である。

 いや、この中学校の教師の方が大変である。

 こんなことまでしなくてはならないのだから、そりゃ教師なんて「なり手」がいないのは当然だろう。

 いまだに教員採用試験の合格率が2倍を切っていないのが、むしろ不思議なくらいではないか。

 私はこの「381人について、仲の悪い者同士を一緒にしない」という配慮は、いわゆる無理ゲーではないかと思う。

 いや、この学校は11クラスなのでまだマシだが、世の中には1学年3~5クラスくらいの学校も珍しくないことを思えば、ますます無理ゲーだと思う。

 ハッキリ言って、こんなことまともに考えるだけでも(1人が専任するとして)数週間はかかるのではないか。

 それも、誰と誰が仲が悪くて、誰が誰をどう思っているかを学校がちゃんと把握している――

 なんて、さらなる無理ゲーをクリアした上で、の話だ。

 
 そして言うまでもなくこれは、会社や団体など大人の世界にも通じる問題である。

 人事異動や人員配置では必ずや怨嗟の声――心の声を含む――が起こり、人事部は何やってんだ・どこを見てんだなどと批判されるのが通例だが……

 しかし、ちょっとした会社でも100人単位の従業員がいるのはザラであることを考えれば、こんな無理ゲーを誰もが納得する配置に仕上げて見せるのはまさに神業の領域だろう。

 だいたいそんなことをやってのけるには、社内で起こるあらゆるコンフリクトや噂などの「人間関係データ」を漏らさず考慮する必要がある。

 これだけでもう、人間業ではないと言える。

 もしこれを実現する方法があるとすれば、それこそ「人事AI」「人間関係AI」の出番としか思えない。

 そう、社内や学校内の(人事担当者や教師たちの)あらゆる知り得たコンフリクトや噂などを、片っ端から入力していく。

 それによりAIが「最適配置」を算出するのだ。

 これは正直、できないことではないと思う。

 むろん人事担当や教師ら知り得ない(取りこぼした)事象は入力なんてできないが、しかしそれでもかなりの「効果」はあるだろう。
 
 ただ問題は(これまた言うまでもなく)、そんな情報を入力することの倫理的是非である。

 誰と誰は仲が悪い、誰々は誰々が話しかけたとき明らかに冷たい反応をする……

 なんてことを情報収集し、しかもAIに入力するなんてこと自体が、もし知られたら世間からバッシングされるに違いない。

 しかしおそらく、世の中の会社や学校では、そういうことをメモしてパソコンに入力しておくくらいの担当者はいるだろう。

 そしておそらく、そういう人たちは「デキる人事(部)」としてそれなりの人事効果を上げてもいるだろう。

 いや、そもそも人事担当とは人事部とは、まさにそういうことをやってこそ真の仕事と言えるのではあるまいか。

 とはいえ私には、ある程度の規模の組織の最適人員配置や学校のクラス編成が、AIも使わずにやれるとはとても信じられないのだが……

 そうは言っても、いずれ人事AI・人間関係AIが実社会で活用されるのは時間の問題とも思える。

 というかAIが最高の効果を発揮するのは、まさにこの人事の領域であるとさえ思えるのである。

 

 

川勝平太静岡県知事、失言で?電撃辞任表明-我々は学者を持ち上げすぎる

 4月2日、静岡県川勝平太知事は、この6月末の県議会をもって辞職するとの意向を示した。

 その前日の4月1日、静岡県庁への新入職員への挨拶の中で、

「実は静岡県、県庁というのは別の言葉でいうとシンクタンクです。

 毎日、毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の高い方たちです。

 ですから、それを磨く必要がありますね」

 という、オイオイと誰もが反射的に思ってしまうような発言をしたことが、大きな話題になったばかりであった。


 まず不思議に思うのは、この新入職員への挨拶(訓示)というのは川勝知事自身が書いたものなのか、推敲も川勝知事自身しかしなかったのか、ということだろう。

 もちろんこういうものの原稿を自分で書くトップというのは多いが、しかし人に書いてもらう(部下に仕事として書かせる)トップもまた多い。

 しかし川勝知事は周知のとおり「学者政治家」である。著作も何冊もある。

 ここは「自分一人で書いた」と信じておいてもいいのだろう。

 次に推敲だが――これも想像に過ぎないが――自分で読み返してみるのは当然するとして、

 たとえ部下にも推敲してもらうにしても、それは誤字脱字のチェックに留まるような気がする。

 おそらく県知事の部下の立場としては、学者知事の書いた文章に「手を入れる」なんて、恐れ多くてとてもできないことなのではないだろうか。

 もし今回のスピーチの原稿を事前に読んだ人がいるとすれば、必ずや「こんな職業差別的なことを言ってはまずいだろう」と気づくはずだ。

 しかし、仮にそうだったとしても、川勝知事はそのまま原稿を読んだ。

 部下が「ビビッて」「萎縮して」あるいは「まぁいいやとスルーして」知事に原稿を返したのは明白である。

 このスピーチの中で川勝知事は、「私の知事室のドアは開けっぱなし」と言っているようだが――

 非常に多くの日本企業のトップがそういうことを言うものなのだが(笑)、実際はそれほど風通しは良くない、むしろ「組織の病理」がやはりここにもあった、と立証したようなものではなかろうか。

 
 さて、言うまでもないが、川勝平太という人物は著名な学者である。

 日本の学者業界の中でも、トップクラスの知名度を誇っていると言っても間違いではない(だからこそ知事選に通るのだ)。

 特に「文明の海洋史観」というフレーズは、ある程度以上の年代の層には「何となくそういう言葉を聞いたことがある」と思わせるほど、かつて一世を風靡した言い回しだろう。

 だが、たぶん現代日本では「大学者」「碩学」と言っていいはずの学者にして、こんな誰が聞いても職業差別観まるだしみたいな言葉を――本人にとってはそう受け取られるのは意外らしいが――、堂々と新入職員への訓示に織り込んでしまうのである。

 そこで思うのが、川勝平太ほどの学者にしてこれならば、他の学者なんていったいどんなものだろう」という直感である。  

 また思うのが、メディア界、特に新聞業界における「学者の重用」現象である。

 新聞業界における学者の重用とは、何か。

 それは、まるでそうするのがオキテであるかのごとく記事の末尾に学者(有識者・専門家と表記されることもある)のコメントを載せ、しかもそれがほぼ100パーセント政治批判か行政批判のコメントであることだ。

 そしてあなたは、思わずにいられないだろう。

 もし川勝平太という人物が知事などにならず学者のままであったなら、まさにその「末尾コメント」の常連みたいな存在になっていたのではないか、と。

 静岡県政や日本政治の哲学のなさ、文明史観の欠如、学術への理解の浅さなどを批判する「役」に打ってつけの末尾コメンテーターとして、メディアに重用されていたのではないか、と。

 そしてそれを読んだ何十万人かが、「そうだよなぁ」とか思ってたんじゃないのか、と……

 しかしそういう大学者または花形末尾コメンテーターも、その実態は「この程度」なのだ。

 あるいは、いざそんな人物が政治実務に携わってみれば「本性が露呈する」と言うべきか。


 総じて、どうも世間の人は、学者というのを過大評価し過ぎだと思う。

 いや、コメンテーターを過大評価し過ぎだと言った方がいいか。

 私は川勝平太氏に限らず、学者の中のかなりの部分が「この程度」なのだと思う。

 学者は学問技芸者であって、武士は戦闘技芸者であって、別に他の人間より人間としてのランクが上なわけではない。

 人は誰しも「ただの人間」であって、秀でた分野や性格が多少違う程度である。

 世が世なら、川勝平太氏が政治家知事になっていない世界なら、我々は川勝平太氏の新聞記事末尾コメントを、権威をもって聞いていたに決まっている――

 そう考えると、学者の重用というのは実にバカバカしいものに見えてこないだろうか。

 

 

中国、過去最大の日本の防衛費を非難-「中国本土への最後の異民族侵攻者」日本への恐怖感

 3月29日、中国外務省は会見において、日本の2024年度防衛費予算が過去最高額(約8兆円)に達したことを非難した。

 ●日本は防衛予算を年々増額し、軍事発展の突破口を模索してきた

 ●日本は近隣諸国の安全保障上の懸念を尊重すべきだ

 ●日本は信頼をこれ以上失わないためにも、平和的な発展の道を堅持することを強く求める

 と強調したそうである。

 これを聞いた日本人の9割は、「お前が言うな」「この国だけには言われたくない」と脊髄反射したはずだ。

 そして私は、思うのである――

 他国が軍事費を増やしたから公の場で「懸念を表明する」のではなく「非難・批判する」というのは、はたして普通のことなのだろうか、それとも異常なことなのか、と。

 これは私は詳しく知らないし、時間をかけて調べようという気にもならないのであるが……

 たとえば中国は、インドの軍事費増額を(軍事行動・軍事実験ではない)批判することが普通だろうか。

 いや、アメリカの軍事費増額を非難するのが通例だろうか。

 フィリピンやベトナムの軍事費増額を、はたして批判しているだろうか。

 私が知る限り、そんなことはしていないはずだ。

 この「軍事予算を増やしただけで非難・批判する」というのは、どうも中国にとっては、日本に対するときだけの特別な対応ではないかと思う。


 そしてこれは裏を返せば、「中国が最も恐れる国」とはいまだ日本である、ということを示しているようにも思われる。

 これは確かに、わからない対応ではない。

 なにしろ今のところ、「中国本土に最後に侵入・征服した異民族」とは日本人のことである。

 これほど強大化した今の中国人にとっても現代日本とは、かつての中国人にとっての北方騎馬民族征服者(モンゴル人など)と同程度の脅威に思えていたとして、そんなに不思議ではないだろう。

 第2次大戦に敗北するまで、日本は北京も上海も武漢も占領支配していた「中国本土の征服者」だった。

 いくら今の日本が平和憲法(本当は一切の軍事力を持ってはいけない)を掲げていると言っても、そんなのは目くらましで実はまた中国侵攻を――とまではいかなくても中国への挑戦・対決を――目指しているのだと脅威・恐怖・警戒感を持つことは、むしろ自然だと言ってよい。

 現代日本人には、全然ピンと来ない話ではあるが……

 中国人は今でも軍事的に日本を最も恐れているというのは、そんなに的外れな推測ではないと思うのだ。