プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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大谷翔平の通訳、違法スポーツ賭博で球団解雇-たぶん大谷は大丈夫だろう

 3月21日、電撃的で青天の霹靂のニュースが日本を襲った――

 いまや日本人史上最高?のスーパーヒーローとなったアメリカ大リーグ・ドジャース大谷翔平(結婚公表・妻判明の直後)の通訳を務め、

 自分自身にもなぜか熱狂的なファン?が付いているという水原一平 氏(39歳)が、突如としてドジャース球団から解雇されたのである。

(⇒ 日刊ゲンダイDIGITAL 2024年3月21日記事:ドジャース解雇!なぜ水原一平通訳の借金は6.8億円までに? 「ギャンブル依存症」の本当の怖さ)

 なんでも原因は、水原氏がカリフォルニア州では違法とされているスポーツ賭博に手を出し――

 なんと「大谷翔平の口座から」最低でも450万ドル(約6億8000万円)を、当の賭博ブックメーカーの元に振り込んだらしい。

 しかし当初、水原氏は、このことを大谷翔平に打ち明けて何とか助けてくれるよう頼み、大谷翔平はあからさまに不機嫌な顔になりながらも「もう二度とこんなことするなよ」と言って「自分で」自分の口座から送金してくれた、と語っていたらしい。

 それがすぐ、「この自分(水原氏)が無断で、大谷翔平の口座からカネを振り込んだ」と訂正したという。

 いやはや、もし大谷翔平に無断で大谷翔平の銀行口座を使うことができたとすれば、これはもう通訳の範疇をはるかに超えた「マネージャー」の役どころである。

 そして言うまでもなく、そんなことは大谷翔平に対する窃盗であり横領である。

 もちろん、誰でもこう思うだろう――

 真実は最初の供述どおりであり、水原氏は大谷翔平に助けを求め、大谷翔平はやむなくこれに応じて自分でカネを振り込んだのだが、

 しかしそうすると大谷翔平自身が違法賭博犯罪に手を染めたことになってしまうので、水原氏は(自発的にか他からの圧力でか)供述を翻したのだ、と……

 実際、世間一般(及び芸能界とか)で誰かのマネージャーを務める人であっても、なかなか本人の銀行口座を自由に閲覧・使用できるようになっていることは少ないと思う。


 だが私は、大谷翔平自身がカネを振り込んだのだろうとは思いはするが、それをもって大谷翔平を非難しようなどとは全然思わない。

 たとえもし大谷翔平自身に、それが違法行為だという自覚があったとしてもである。

 仮に大谷翔平がこれが原因で裁判にかけられて私が裁判員陪審員)になったとしたら、これは無罪だと言うだろう。

 別に大谷翔平の大ファンだからというわけではなく、「そりゃそうするんじゃないの?」と思うからだ。

 いや、私のみならずあなたにしても、これほど身近な(そして絶大に信頼している)人からこんなこと打ち明けられて助けてくれと泣きつかれれば、自分にとって「これくらいのカネ」なら仕方なく振り込むのではなかろうか。

 それを断固拒否するというのは、よっぽどの冷血漢でなければ(いくらそうしたいのはやまやまでも)できないことだと思うのである。

 
 さて、話は変わって――

 この「信頼する側近やマネージャーに裏切られる」というのは、プロレスファンにとっては非常に馴染みのあるシチュエーションである。

 みちのくプロレスのグレート・サスケは、後楽園ホール初進出のときカネを預けていたスタッフにそのカネを持ち逃げされたという。

 UWF前田日明はフロント陣に裏切られ、直後には仲間だと思っていたレスラーたちに裏切られた。(もっともこれには、見方によって異論がある)

 これらの例の中で最も有名なのは、初代タイガーマスクのマネージャーだった「ショウジ・コンチャ」なる不思議な――一度聞いたら忘れられない響きの――名前の男だろう。

 そうした過去のプロレス界の例から考えるに、今回の不祥事により大谷翔平がダメージを受けることはないはずである。
 
 これまでプロレス界で「騙された」人が、それが原因で名声を落としたということはないからである。(私の知る限り……)

 おそらく今回の件は、大谷翔平にとって「ほろ苦い人生教訓」くらいで終わるのではないか。

 アメリカの司法は違法ギャンブルに対し、日本よりはるかに厳しく望むのかもしれないが――

 しかしこれはいくらなんでも、「やむを得ぬ巻き込まれ事故」と感じる人が多いと思う。

 むしろ大谷翔平は(信頼を裏切った男に対して、それでも助けたということで)人間の株を上げた、とすら見ることもできる。


 しかしまあ、世の中には想像も付かぬことがポンポン起こるものである。

 まさか「あの大谷翔平の通訳」が「ギャンブルで一度も勝ったことがない」ギャンブラーであることを認めるなんて、昨日まで誰が想像しただろう……

 

 

儒教「受け売り冤罪」事件-これが少子化非婚化の原因となぜ思う

 日本もそうだが、東アジア各国の出生率低下・少子化・非婚化は世界の中でも低い方と言われる。

 そして、その原因として打てば響くように返ってくる答えが「儒教という言葉である。

 「儒教による家父長制」が強い地域ほど女性が抑圧されている(に決まっている)ので、「当然」非婚化も少子化も進む、という理屈である。

 しかし私はこれは、世にも珍しいほど的外れな理屈だと思っている。

 端的に言ってこれは、儒教冤罪事件」だと思っている。

 それについては、以前も記事を書いた。

(⇒ 2023年1月24日記事:諸悪の根源?「昭和」と「儒教」(下)-非婚化・少子化は儒教のせいか)

 さて、私は別に、儒教の信奉者でもファンでもなく、もちろん護教論を展開しようという気もない。

 いや、私ばかりでなく、そもそも儒教の信奉者なんて日本に何人いるだろうか。

 日々論語を読んでいる人なんて、日々聖書を読んでいる人に比べれば10分の1にも満たないに違いない。

 それでも再度「儒教冤罪事件」について書くのは、それがあまりにも世に氾濫しているからである。

 少子化非婚化のネット記事のコメント欄をほんの少し見れば、必ずや「儒教のせい」という書き込みが見つかる、と言っても過言ではない。

 それどころか、たとえば街角インタビューや身近な人との会話で少子化非婚化の原因について聞かれれば、非常に大勢の人が「儒教のせい」みたいなことを言うのではなかろうか。

 それも、論語も一読したことがなく、孔子って誰ですかと聞き返すようなアンチャン・ネーチャンたちさえもが、だ。

 私はこの現象は、「受け売り」以外の何物でもないと思う。

 人が「儒教のせい」だと言うから自分も言う、人が言うから自分もそう思う……

 そうでなければ少子化非婚化が儒教のせいだなんて、いったい何人の人が自力で考えつくだろうか。

 私が極めて不思議に思うのは、人から「少子化非婚化が儒教のせい」と聞いて「肚落ち」する人がこれほど多いらしい、という事実である。

 もっと踏み込んで言えば、そんなことにたやすく納得し共感するという精神構造が不思議なのだ。

 だいたい、儒教少子化非婚化に関係あるということ自体、かなり突飛な組み合わせである。

 そんな話を聞けば、そもそも儒教って何だろう、論語にはどんなことが書いてるんだろうと調べたりするのが当然だろう。

 しかしもちろん、儒教原因説に納得・共感・肚落ちする人の90%以上はそんなことはしていない、と断言するのは過言だろうか(笑)


 儒教というものをもし一言で表せと言われれば、それは「孝」の一字ということになるだろう。

 むろん親への孝であり、先祖への孝である。

 だから本当に儒教が社会全体の道徳だった昔の中国人にとっては、とにかく「家系を絶やさない」ことが最も大切なことだった、というのは有名な話だろう。

 すなわち儒教のせい」にできるのは、「どんな無理をしてでも結婚する・子どもを作る」のが社会問題になっているときにこそふさわしい。
 
 そういうときこそ、儒教の悪影響が問題になるべきなのだ。

 それなのに、全く真逆の少子化非婚化が儒教のせいにされているというのは、異常な奇観ではあるまいか。


 また、何も少子化非婚化が進んでいるのは東アジアだけではない。

 イタリアやスペインは日本より出生率が低いし、ヨーロッパ諸国も全体的に似たようなもの。

 ギリシャなんかは「世界で最もセックス回数の多い国民」として有名なのに、それでも出生率1.4程度。

 何となく多産のイメージがある東南アジアのタイも日本と大差なく、それどころか全世界的に出生率は低下している。

 さて、東アジアの出生率低下が儒教のせいならば、イタリア・スペイン・ギリシャの低下はキリスト教のせいだろうか。

 タイの低下は仏教のせいだろうか。

 そんなこと言われて肚落ちする人が、はたして何人いるだろうか。

 やっぱり「儒教のせい」だというのは、冤罪と呼ぶべきではないか。

 
 私はこの儒教のせい」説の広まりは、いかに世の中に「受け売り文化」が広まっているかの表れだと思う。

 ネット社会になったことにより、受け売りによる納得・共感・肚落ちが社会を席巻している象徴の一つだと思う。

 ひょっとして世の中には、もはや受け売りでしか納得・共感・肚落ちできない人がゴマンといるのではなかろうか。

 少子化非婚化が儒教のせいだと言う人が、はたして儒教のいったい何を知っているのか、知ろうとしたことが一度でもあるか……

 別に儒教の味方でなくとも、それくらいのことは感じて当然だと思うのである。

 

 

解釈改憲再び-高裁初判決「同性婚否認は違憲」じゃなく「同性婚容認に憲法が違反」じゃないの?

 3月14日、札幌高裁は、同性婚を認めていない現行の民法や戸籍法の規定は違憲であると、高裁として初めて判決した。

 ただし、国への賠償請求は認めなかった。

(⇒ ハフポスト日本版 2024年3月14日記事:【判決要旨全文】札幌高裁が「違憲」と判断した理由は?(結婚の平等裁判))

(⇒ 朝日新聞 2024年3月14日記事:同性婚を認めない規定は「違憲」 札幌高裁判決 初めての高裁判断)

 さて、この同性婚の容認・否認というテーマ、今の日本のメディア界で最もホットなテーマの一つである。

 そして私は、同性婚を(そんなに積極的にというわけでもないが)認めていいと考える立場である。

 今の流れから行けば、いずれ日本で同性婚は晴れて公然と認められることになるだろう。

 私はそういうのも、社会実験として面白いことだと思う。

 反対派の人たちが言う「社会に悪影響が出る」というのが本当のことなのか、答え合わせする唯一の方法だと思う。

 ただ、今回の判決について――というか同性婚絡みの判決全てについて――思わずにいられないことが、一つある。

 それは、同性婚を認めない現在の法制が「違憲」だというのは、明らかに間違いじゃないかということだ。

 むしろ同性婚を認めてないのは、明らかに憲法の文言の方じゃないかということだ。

 今回の札幌高裁判決は、同性婚を認めない現在の法制は、憲法24条に違反するものとした。

 その憲法24条は、

 第1項 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 

 第2項 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 となっている。

 もちろん「夫婦」と書いている以上、憲法は明らかに「男と女のペア」が婚姻することを当然の前提としている。

 となると「両性」というのも「男と女」のことである。

 それを今回の判決では、憲法24条は「文言上は両性間の婚姻を定めているが、個人の尊重がより明確に認識されるようになったとの背景の下で解釈することが相当」であり、

 「婚姻は当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたもの」であり、

 「人と人との間の自由な結びつきとしての婚姻をも定める趣旨を含むもの」であって、

 「異性間の婚姻のみならず、同性間の婚姻についても、異性間の場合と同じ程度に保障していると考えるのが相当」と解釈した。

 これはいわゆる、「解釈改憲」である。

 「憲法にはなるほどそんな表記がしてあるが、その趣旨からすればこう解釈するのが妥当」という形で、文言はそのままに換骨奪胎する形での実質的な改憲だ。

 しかしこれ、普通の人にしてみれば、どう見ても憲法の文言の方が同性婚の容認を阻害している。

 だからもちろん、同性婚を認めない現在の法制が憲法に違反しているのではなく、「憲法の方が同性婚を認めてないのが(同性婚にとって)違反」となるのが当然ではないか。

 たとえば憲法24条の改正は、こんな風にすべきだろう――

 第1項 婚姻は、「当事者一名ずつの」合意のみに基いて成立し、「当事者同士」が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 

 第2項 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と「人間の」本質的平等に立脚して、制定されなければならない。


 しかし私は(当然のことだが)、裁判官が違憲判決は出しても「憲法がおかしい」判決を出さないことを批判しようとは思わない。

 しょせん裁判官には、そんな判決は出せないからだ。

 憲法の方がおかしいから改正すべきだ、なんて判決することは、しょせん裁判官の権能のうちには入らないのである。

 そしてまた、思うのだが――

 こういう解釈改憲をすることは、「しょせん憲法なんてその程度のもの」という意識を国民に根付かせるのに十分な効果があるのではなかろうか。

 なんたって、誰が読んでも「婚姻は男と女がするもの」と憲法に書いてあるのに、実際はそうじゃない、別の意味がある……

 というのが「正しい解釈」だ、というのだから。

 こんな憲法アホらしくって、まともに読んでいられない――となるのが、まともな人間の感覚というものだと思う。

 まあ、しかし、何度か書いていることではあるが――

 すでに憲法については「自衛隊は、憲法が保持することを禁じる『戦力』じゃない、軍隊じゃない」なんて超絶アクロバット解釈がされてきて久しいのだから、いまさらどうこう言っても仕方ないのかもしれない。