プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

社会、ニュース、歴史、その他について日々思うことを書いていきます。【プロレス・格闘技編】はリンクからどうぞ。

履歴書「性別・顔写真は削除」の代わりに「自己PR動画」の戦慄~内気な人は排除していい?

 TBSラジオの番組「森本毅郎・スタンバイ!」が、就職活動の履歴書から「性別欄」と「顔写真欄」が削除される動きについて放送した。

 性別の削除はもちろんLGBTなどへの配慮、

 顔写真の削除は「見た目主義」(ルッキズム)排除の意図である。

(⇒ TBSラジオ 2021年3月30日記事:履歴書から性別欄、顔写真欄を削除へ。多様性に配慮)

 それはそれでいいとして、何と言っても目を引くのはその次に書いてあることだ。

 これは、極めて大勢の人が愕然としたのではないか。

 思いっきり「自分は排除された」と感じたのではないか。

 「こんなことが社会全体に広がっていったら、自分はいったいどうなるんだろう」と戦慄したのではないか。

 なんと、三井化学株式会社は――

 「証明写真の提出を求めない代わり、服装自由の自己PR動画」をエントリーシートの設問の一つに設けた、というのである。


 いやはや、こんな時代になったのだ……

 もはや時代は、ユーチューバーみたいな人じゃないと会社に就職さえできなくなりつつあるのだろうか。

 私は断言するが、こういう自己PR動画を撮るなんて死ぬほど苦手、死ぬほど嫌、死ぬほど恥ずかしい――

 なんて人は、日本中にゴマンといるはずである。

 自己PR動画をエントリーシートにアップさせるというのは、そういう人たちを排除することに間違いなく、なる。

 外見や服や性別で排除するのは悪いが、内気な人を排除するのはいいのだろうか。

 私にはこれこそ、内気な人に苦痛やストレスを与えていると思われるのだが。


 臆面もなく自己PRできる、それもそれを撮影して人に見られるのを苦にしない人は採用するが、そんなことがどうしてもできない人はエントリーしなくてよろしい……

 もちろんそう考えるのは各企業の自由であるが、それが社会全体の主流・潮流になった暁には、内気な人の居場所はどこにあるのだろうか。

 なんだかまるで、ウェーイ系が上位を占めるという「スクールカースト」が、社会全体に(しかも肯定的に)構築されるようなものではあるまいか。


 みなさん、この話、戦慄しませんか?

 いや、たとえネットニュースにはならなくとも、こんな話を聞きさえすれば戦慄する人は、何十万人もいるような気がするのだが…… 
 

 

「一太郎禁止」なら「元号禁止」でもいいんじゃないか、互換性を言うなら…

 3月30日、農林水産省ワープロソフトはワードだけ使うべきとした「一太郎禁止令」が出された、と報じられた。

 最近やたら多い「法案の条文ミス」の理由とされ、民間企業とのやり取りで不便が生じていることが理由だという。

(⇒ FNNプライムオンライン 2021年3月30日記事:法案ミスで「一太郎」禁止令? 農水省「ワード原則化」通知)

  たぶん多くの人は、「いまだにワードじゃなく一太郎を使っているのか」と感じただろう。

 なるほど官公庁ではいまだに一太郎の使用が(一部ではあっても)根強く続けられているとは聞いていたが、それは事実だったらしい。

 ところで私の場合、オフィスではワードを使うがプライベートでは一太郎を使う。

 大雑把に言うと、「文字の色づけや塗り潰し」ではワードが勝るが、それ以外の日本語変換性能やレイアウト性能では、一太郎が勝ると言ったところだろうか。

(何だかんだ言っても、やはりATOKは変換性能でボロ勝ちである。)


 とは言っても、世の中はやっぱりワードだらけである。

 民間企業では一太郎なんてインストールしているところは少ないだろうから、ファイルの互換性の点でワードが絶対的優位に立つのは仕方ない。

 だが、これって、何だかんだ言ってもマイクロソフトの「抱き合わせ商法」の勝利ではなかろうか。

 日本語ワープロソフトとしてはたとえ性能が劣っていても――

 手段はどうあれ普及率で勝ちさえすれば、それがスタンダードになる。

 それじゃないのを使うことが「問題視」されるようになる。

 なんだか優れた日本語ワープロソフトを開発し向上させようとするのは、バカらしく思えるではないか。

 
 しかし、素人なりに思うのだが……

 日本人が国産日本語ワープロソフトの一太郎を使うのを問題視し、

 外国企業の日本語ワープロソフトをみんな使えと決めるというのは、本当に問題ではないのだろうか。

 私は別に国粋主義者ではないが、中国企業が作った日本語ワープロソフトがスタンダードになりそうになったら、やっぱりみんなそれを使えと日本政府が言い出すのだろうか。

 そんなことしてたら日本の基幹産業は全て中国に奪われて(負けて)しまうと思うのだが、相手が中国や韓国でなくGAFAだったらそれでいいのだろうか。

(もっとも今のスマホだって、韓国のサムスンが日本のシェアをかなり占めているが……)

 
 そして互換性を言うのなら、日本の「元号」というものだって禁止令を出してもおかしくなさそうではある。

 今が2021年だと知っているが、令和3年だということは知らない日本人って、かなりいるはずだ。

 そして元号使用こそ、膨大な煩わしさや表記ミス(令和3年と打つべき所を平成3年と打ってしまうような)を齎しているのではないか。

 おそらく、元号使用を本当は「メンドクサイ」「不合理」と思っている日本人は、非常に多いはずである。

 不合理というのは、「昭和62年から現在まで続く賃貸借契約は、では何年続いていることになるか?」という換算の手間のことである。

 そして当然ながら、元号には世界に通じる互換性がない。

 公文書でそれを使用することは、日本で暮らす外国人への配慮がないと難癖を付けられても仕方ないことだろう。

 日本政府は、それは問題視しないのだろうか。

 そしてまた、少なくとも「法案の条文の表記ミス」は、一太郎のせいでは絶対にないはずだ――

(もちろん人間のチェックミスのせいである。

 ハッキリ言って、長々とした法案の条文なんて、誰も読まずに「はいはい、ハンコ押すよ」で決裁が通っていくシーンが目に見えるようではないか。)

 

「させていただく」も衰え、「雌雄を決する」は放送禁止用語になるだろう

 いつか誰か絶対書くだろうと思っていた本が、やはり書かれた。

『「させていただく」の語用論 人はなぜ使いたくなるのか』(ひつじ書房、著者:法政大学教授・椎名美智)

 である。

www.news-postseven.com


 
 これは(読んでないけど)まさに書かれるべくして書かれた本であって、

 現代日本で「バカ丁寧」「慇懃無礼」の象徴中の象徴、違和感中の違和感とは、まさにこの「させていただく」語法だからである。

 なぜこんな、誰が聞いても「へりくだりすぎ」「おもねりすぎ」な語法が、猫も杓子もまるで正式用法のように使われて一世を風靡したのか――

 それはやはり、「ヘンなヤツ対策」の一言に集約されるだろう。

 周知のとおりいるのである、ここまで「へりくだらないと怒り出すヤツ・不快感を示すヤツ」というのが。

 そしてまたこれは、例の歴史法則を示してもいる。

 すなわち「平和が続くと世の中は貴族化する」、何でもかんでも繊細に丁寧に、繁文縟礼化し柔弱化するという法則のことだ。

 もちろんこれは、みんながそれを「いいこと」だと思うから進行していく。

 中国の遊牧民や半農半猟民族が建てた国だって、みんなそういう風になっていった。

 現代日本だって、当然その例外ではない。


 いまや「えーと、あの女の人」と言うことすら避けるべき時代である。

 ここは意識的に、「えーと、あの女性の人」と言わねばならないのである。

 なぜなら放送業界で「女」と呼ぶのは、犯罪者の女だけだからだ。 

 逮捕されたら「女」で、そうでなければ「女性」と言わねばならない――

 これは放送業界というたかが一業界での内規に過ぎないのだが、しかしその内規は非常に影響力があり、まるで正式の法律であるかのように国民の意識を規制している。

 「逮捕されたら女と呼び、そうでなければ女性と呼ぶ」……

 これは今の日本において、「民間法律」とも言うべきほど「正義化」した語法だろう。


 それに比べて、「させていただく」が使われなくなるのは比較的近未来のことだと思われる。

 なぜなら少し前ごろから既に、この語法はむしろジョークのタネに近い扱いをされているからだ。

 これはもう仲間内の話では「かしこまった物言い」を戯画的に表す語法であって、やがてビジネスマナー的にも「ふざけてる」と受け止めるのが普通の状態になりそうではないか?


 その一方、もうすぐ放送禁止用語になりそうなのは「雌雄を決する」という言い方である。

 この言葉、主にスポーツ(その中でもプロレス・格闘技)の分野でよく使われる。

 しかしもちろん、誰が見たってこれは「ジェンダー平等違反」である。

 「雌雄を決する」は、「雄と雌を区別する」という中立的な用語ではない。

 言うまでもなく「勝つか負けるかを決する」意味であり、言うまでもなく「雄の方が勝つ方」なのだ。

 予言しておくと、「雌雄を決する」がテレビ・ラジオから聞かれなくなる日は近い。

 いや、今この時点でさえ放送禁止用語になっていないのが不思議なほどである。

 「雌雄を決する」という言葉は、今後5年くらい以内に息の根を止められる、と予想してもさして間違いではないだろう。