プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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続・本城惣右衛門覚書の謎-「上様」が誰か知らないなんて

 前回記事に続いて、「本能寺の変明智方従軍者」本城惣右衛門の覚書についてである。

 いよいよ彼が本能寺に突入したときの様子は、こうだ。


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(原文)

 人じゅの中より、馬のり二人いで申候。

 たれぞと存候へば、さいたうくら介殿しそく、こしやう共に二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、我等其あとにつき、かたはらまちへ入申候。

 それ二人はきたのかたへこし申候。

 我等はみなみほりぎわへ、ひがしむきに参候。

 ほん道へ出申候、其はしのきわに、人一人い申候を、其まま我等くびとり申候。

 それより内へ入候へば、もんはひらいて、ねずみほどなる物なく候つる。

 其くびもち候て、内へ入申候。

 さだめて、弥平次とのほろの衆二人、きたのかたよりはい入、くびはうちすてと申候まま、だうの下へなげ入、をもてへはいり候へば、ひろまにも一人も人なく候。

 かやばかりつり候て、人なく候つる。

 くりのかたより、さげがみいたし、しろききたるものき候て、我等女一人とらへ申候へば、さむらいは一人もなく候。

 うへさましろききる物めし候はん由、申候へ共、のぶながさまとは不存候。

 其女、さいとう蔵介殿へわたし申候。

 ねすみもい不申候つる。

 御ほうかうの衆ははかま・かたぎぬにて、ももだちとり、二三人だうの内へ入申候。

 そこにてくび又一つとり申候。

 其物は、一人おくのまより出、おびもいたし不申、刀ぬき、あさぎかたびらにて出申候。

 其折ふしは、もはや人かず入申候。

 それをみ、くずれ申候。

 我等はかやつり申候かげへはいり候へば、かの物いで、すぎ候まま、うしろよりきり申候。

 其時、共にくび以上二つとり申候。

 ほうびとして、やりくれ被申候。

 のの口ざい太郎坊にい申候。
 
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(訳)


 大勢の中から、馬に乗った者が二人出てきました。

 誰かと思えば、齋藤内蔵介殿の子息、小姓ども二人で、彼らが本能寺の方へ乗って行かれる間、我らはその後に続き、片原町?へ入りました。

 齋藤内蔵介殿の子息ら二人は北の方へ行かれました。

 我らは南の堀際へ、東向きに行きました。

 本道へ出ましたとき、その橋の際(きわ)に、人が一人いましたところを、そのまま我らは彼の首を取りました。

 そこから本能寺の中へ入りますと、門は開いていて、ネズミほどのものもいませんでした。

 橋の際で取った首を持って、さらに中へ入りました。

 ちょうど、弥平次殿の母衣の衆が二人、北の方から入ってきて、「首は打ち捨てにせよ」と申されましたので、お堂の下へ首を投げ入れ、表から入りますと、広間にも人っ子一人いませんでした。

 蚊帳ばかり吊ってあって、人はいませんでした。

 庫裏(物置)の方から、下げ髪をして白い着物を着ている者が来まして、我らはその女を一人捕らえましたが、武士は一人もいませんでした。

 その女は「上様は白い着物をお召しになっている」と申しましたが、私はそれが信長様のこととは知りませんでした。

 その女は、齋藤内蔵介殿へ渡しました。

 ネズミさえもいませんでした。

 (信長様へ)御奉公する連中は袴・肩衣を着ており、股立ちを取り(袴の裾を、歩きやすいように上へたくし込んで)、2・3人がお堂の中へ入ってきました。

 そこで、首をまた一つ取りました。

 その首を取った者というのは、一人で奥の間から出てきたのですが、帯もせず、刀を抜いて浅黄帷子の姿で出てきました。

 その時分には、既に大勢が(本能寺の中へ)入っていました。

 それを見て、(御奉公衆は)逃げ崩れました。

 我らは蚊帳が吊ってある物陰へ入りましたが、その(浅黄帷子の)者が近づいて、彼が通り過ぎるところを、背後から斬りました。 

 そのとき(私が本能寺の変に従軍したとき)取った首は、以上の二つです。

 褒美として、槍をいただきました。

 野々口才太郎(?)が、坊(本能寺のこと?)にいました。(※この最後の一文は、意味不明である。)

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 さて、誰もが感じるのが、この本能寺の圧倒的な「無人ぶり」である。

 「ネズミほどのものもいなかった」と、惣右衛門は二度も繰り返している。


 そしてまた、描写がリアルである。

 「蚊帳ばかり吊ってあった」(旧暦6月2日は新暦の7月上旬に当たるので、確かにそうだったろう)

 「正面からではなく、通り過ぎるところを後ろから斬った」

 などというのは、まさに迫真の・まさに実戦といった感じである。


 さらに言えば、もしこの覚書が偽作だとすれば、見事なまでの抑制ぶりだと思われないだろうか。

 私だったら

「信長様がその中で切腹した、紅蓮の炎を私は見た。

 その熱を顔に感じた」

 くらいは思わず書いてしまいそうである。

 なのに惣右衛門は、(たった)二人の首を取ったとしか書いていない。

 その二つ目の首を取った時点で、何もかもが終了してしまった感じである。


 また、非常に印象深いのは、この本能寺のどうしようもないほどの無防備ぶりだろう。

 門は開いていて、門番(なのかどうかすら定かではない)はたった一人しかおらず、あまりにあっさり敵の突入を許している。

 こんなのだったら、ただの盗賊団でも簡単に侵入できそうではないか。

(そして、迎撃態勢も全くなっていない。)


 しかし最大の疑問は、引っかかるところは――

 捕らえた女に「上様は白い着物をお召しになっている」と言われてもなお、

 惣右衛門は「その上様というのが信長様のこととは知らなかった」と書いているところだろう。

 考えてもみよう。

 女が「上様は白い着物をお召しになっている」と言う状態になるには、必ずや次のような会話があったはずなのだ。


 「上様はどこにおられる! 言え、言わぬか!」

 「う、上様は白い着物を召しておられます!

  どこにおられるかは知りませぬ!」


 ……いったいあなたは、こうでなくてどうして「上様は白い着物をお召しになっている」と女が言う、と思うだろうか。

 そう、惣右衛門の書いていることを信じるなら、それは控えめに言っても不審である。

 ハッキリ言えば、信じられないことである。

 惣右衛門は、その仲間らは、ターゲットが誰であるかも知らずに本能寺に突入したのだろうか。

 そんなことがあるだろうか。

 「上様はどこにいる?」と聞かずに「上様は白い着物を召しておられます」という答えが得られるなんて、あり得るだろうか。

 そしてまた、もし得られたとすれば……

 「上様」と聞いてそれが信長のことだとわからないなんて、それこそあり得るだろうか。

 明智軍の兵卒にとって、信長以外に上様と呼ぶべき人はいないはずなのに――


 私は少なくともこの点に限っては、惣右衛門はウソをついていると思う。

 なぜかと言うに、惣右衛門がこの覚書を書いたとされる寛永17年(1640年)の時点では、「謀反」というのは言い訳しようがない「大罪」扱いされていただろうからだ。

 惣右衛門は、自分が本能寺の変に参加したこと、首二つを取る手柄を立てたことは――

 子孫に書き置くべき自身の戦功譜として、抜かすわけにはいかなかった。

 しかしもちろんそれは、謀反という大罪への加担に他ならない。 

 だが、「その時は謀反とは知らなかったんだ」としておけば、心置きなく自身の手柄を語り残せる。

 そういうことではないだろうか。


 ともあれ、もしこの覚書が偽書でなく、惣右衛門が正確に58年前のことを回想しているのだとすれば――

 本能寺の無防備ぶりは、ほとんど信じられないほどである。

 信長が火を放ってその中で切腹する余裕があったとは、とても思えないほどである。

 そう、本能寺の変の最大の疑問というのは、この「ものすごく短時間で終わったはずで、信長が猛火に包まれる時間は合ったのだろうか」という点ではないだろうか……

 

「大阪都構想」否決-見物人から見た敗因

 11月1日、大阪市を廃止して大阪府に「接収」、旧大阪市は4つの特別区に再編するという「大阪都構想」について、大阪市住民投票が行われた。

 結果は、都構想への反対が多数で否決。

 しかし、前回5年前も反対70万5585票、賛成69万4844票という僅差であったが……

 今回もまた、それと同程度のものすごい接戦であった。

 テレビで開票速報を見ていた人は、「反対多数確実」のテロップが流れているのに、

「いや、下に出てくる数字は賛成の方が多いんじゃないか?」

 と思わずにいられなかったはずだ。


 さて、私はこの大阪都構想についてあまり関心なく過ごしてきたのだが――

 そこは野次馬・見物人・素人なりに、都構想すなわち維新の会の敗因を考えてみよう。


 まず何より真っ先に思うのは、大阪は「都」じゃないだろう、という単純極まる感想である。

 これ、大阪市民・大阪府民の外の人は、みんな思ってたことじゃないかと思う。

 いや、普通は誰でもそう思うはずである。

 おそらく大阪「都」構想というネーミングで最初から最後まで押し通したのは、

 大阪市民・大阪府民の反東京意識というか、自尊心をくすぐる意図があってのことだろう。

 しかしこれ、やっぱりミスネーミングじゃなかったかと思うのである。

 単に「大阪大再編構想」とでもしておけば、「『都』の僭称じゃないか」という至極ストレートな反応は避けられたろう。


 そして次に、「二重行政の解消」というやつである。

 これ、いくら無駄だとか言われても、一般市民にはそんなに響かないくらい実感のない話ではなかろうか。

 たぶん「自分は、自分たちは、二重行政で損をしている。余分な金と労力を費やされている」と本当に「実感」している人というのは、ごくごく少数ではなかろうか。

 少なくとも、今回投票した人の半分ちょっとを超える人たちにとっては――

 よく言われる「現状維持バイアス」を乗り越えるほど、いらん負担とは感じていないということだろう。

 
 さてしかし、今回の維新の会の敗北は、前回よりも深刻だとも言える。
 
 なんたって吉村府知事・松井市長という、当事者たる大阪府大阪市のトップが二人とも維新の会だというのに、それも5年もあったのに、それでもまだ勝てないのである。

 それはなぜかと言えば、私はこんなことはあんまり言いたくないのだが……

 この二人も、いや維新の会の誰であっても、

 全て「橋下徹の子分だろ」

 と思われていることが大きいと思う。

 吉村府知事は、橋下徹 氏の子分である。

 松井市長も、橋下徹 氏の子分である。

 こう思われているのを、誰が否定できるだろう。


 吉村府知事は、三度目の都構想挑戦はないと(涙ぐみながら)言った。

 松井市長は、令和5年の任期満了後は政界引退すると言った。(自主的レームダック化宣言、とも言える。)

 そう、もし都構想を何が何でも実現させたいのなら――

 彼らは維新の会とは別の党を作り、「橋下徹の子分」イメージから脱却を図る必要があるだろう。

 「都」構想ではなく、別の名称にする必要もあるだろう。

 そうすれば三度目の正直で、今度こそ勝利する確率は充分に高い。

 

「本城惣右衛門覚書」に新(真?)解釈-本能寺の変の真相やいかに

 1582年6月2日早朝の「本能寺の変」は、「邪馬台国」と並ぶ日本史上の二大誘蛾灯である。

 およそ日本史に興味のある日本人で(日本史に興味のある外国人については、よくわからない)、この二つに興味を持たない人は変人と言っても過言ではない。

 邪馬台国についてはその所在地、

 本能寺の変についてはその真相、いや「真の黒幕は誰か?」というミステリーは、

 今後も(特に新発見がなければ)何十年も人々の興味を引きつけるだろう。


 さて本能寺の変について、ものすごく興味深く――

 ほんの少しでもディープな本能寺ファンなら、誰でも知っている史料がある。

 それが、「信長を襲撃した明智軍に従軍していた(一兵卒)、本城惣右衛門の覚書ないし回想録」というものである。

 本城惣右衛門がこの覚書を書いた、あるいは口述筆記させたのは、寛永17年(1640年)。

 そのとき彼は80歳か90歳だ、と自ら言っている。

(正確な誕生日いや誕生年さえ知らなかったらしい。昔の人らしいといえばそうである。)


 つまり、58年前のことを回想しているわけで――

 たとえ偽文書でないにしても、信憑性については疑問符が付けられても仕方ないと言えば言える。

 そしてこの覚書で特に重要で目立つのは、変当時の惣右衛門が、

「てっきり徳川家康を討つのだと思っていた」

 とされていたことである。

 思えば、世に溢れる「本能寺の変本」には、これを根拠に

「信長は家康を討とうとしていた。

 それが証拠に、一兵卒さえそれが不自然で驚くべきことだとは感じていなかった」

 と書いてあるものがどれほど多いことだろう。

 ところがどっこい、そういう読み方は間違いで――

「文脈的に京都へ向かう理由について、惣右衛門が「上洛中の家康への援軍に変更された」と理解していたのが正しいとわかった。」

 とのことである。

(⇒ 読売新聞 2020年11月1日記事:信長切腹「夢にも思わなかった」…本能寺の変、明智軍武士が述懐)

 ところで私は、この本城惣右衛門覚書が全文掲載されている、『業餘稿叢』(木村三四吾・編、昭和51年)という本を持っている。

 そこで、該当部分を書き出してみることも容易にできるのでやってみよう。

(原文はカタカナ部分などもあるが、読みやすく平仮名に改めた。)


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(原文)

 あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申候時、ほんのふ寺へ我等より先へはい入候などといふ人候はば、それはみなうそにて候はん、と存候。

 其ゆへは、のぶながさまにはらさせ申事は、ゆめとも不申候。

 その折ふし、たいこさまびつちうに、てるもと殿御とり相にて御入候。

 それへ、すけに、あけちこし申候由申候。

 山さきのかたへとこころざし候へば、おもひのほか、京へと申候。

 我等は其折ふし、いへやすさま御じゃうらくにて候まま、いゑやすさまとばかり存候。

 ほんのふ寺といふところもしり不申候。 

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(訳)

 明智光秀が謀反し、信長様に腹を召させた(切腹させた)という時、本能寺へ我らより先に入(はい)り入(い)ったなどという人がいれば、それはみなウソに違いない、と思います。

 その理由は、信長様に切腹させるなんてことは、夢にも知りませんでした。

(※「その理由は」から始まるのなら「~からです」と続くべきだが、そうなっていない。)


 その時分、太閤様(羽柴秀吉)は備中に、毛利輝元殿と御対戦のためお入りになっていました。

 それへ、(秀吉を)助けに、明智光秀が来る・行くと言われていました。

 我々は山崎(※あの有名な、秀吉と光秀が争った「山崎の戦い」のあった所)の方へ行くのだろうと思っていましたが、思いのほか、京へ行くのだと言われました。

 我らはその時分、徳川家康様が御上洛中でありますので、家康様とばかり思っていました。

 本能寺という所も知りませんでした。
 
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 「家康様が御上洛中なので、家康様とばかり思っていました」を、

 「家康様を討つのだとばかり思っていました」が一般に流布した読み方で、

 「家康様に合流するのだと思っていました」が、今回の「正しいとわかった」読み方である。

 さて、これはどちらが正しいか。
 
 私としては、(そう言われてみれば、だが)今回の読み方が正しいと思う。


 この覚書が書かれたとされる1640年は、完全に徳川幕府時代である。

 むろん、この覚書は市販するようなものではないが――

 しかし、口述筆記する人、及び真の読者であるはずの惣右衛門の子孫が、「てっきり家康様を討つのだと思ってた」なんて聞けば・読めば……

 それは少なくとも、ギクッビクッという反応を引き起こすものではなかったろうか。

 私がもし惣右衛門なら、あるいは筆記者なら、少なくとも「恐れ多いことながら……」という前置詞を付けるのが自然だと思うのだ。


 惣右衛門は、山崎に行くのだと思っていた。

 本拠である亀山城を出発した明智軍はまず東に向かって「老の坂」を越え、「沓掛(くつかけ)」に着く。

 ここで南下すれば山崎に着き、そこから西進して中国地方(山陽方面)に向かう。  

 ターニングポイントは沓掛で、ここで南下せずそのまま東進して京都に向かうのは、惣右衛門にとって意外なことだった。

 なぜそうするのか、惣右衛門が思いついた理由が「徳川家康との合流」であるとするのは、確かに不自然なことではない。

 むろん、今の我々から見れば、それは不自然なことではある。


 家康は確かに上洛していたが、しかし軍勢を率いていたのではない。

 家臣・従者など含め、せいぜい数十名である。

 このことは、惣右衛門ら明智軍の末端兵士も知っていておかしくない。


 そしてまた、ターニングポイントである沓掛を東に、京に向かったそのとき、家康は京におらず堺にいた。

 家康は5月15日から17日まで安土城で(途中まで明智光秀に)接待を受け、

 5月21日に上洛して信長と面会、そこで堺・奈良などの見物を勧められる。

 家康は5月28日まで京に滞在後、29日に堺へ向けて出発。

 変の前日の6月1日には、堺の商人の茶会に出席している。

 だがこんなことは、惣右衛門ら明智軍の末端兵士が知るはずもないだろう。

 彼らが知っていたのは、家康が上洛した(京都に来た)こと、大軍勢を連れてきたわけではないこと、くらいのはずである。

 だから彼らが、自分たちが京都に向かうのは、京都にいる徳川家康と合流するためだと思ったのは、当時の兵卒としては不自然ではない。

 ただ、家康は軍勢を率いていないはずなのに、という違和感くらいはあったかもしれない。

 そして逆に、「軍勢を率いているわけでもない家康を討つのに、なぜ自分たち(1万人くらい?の)軍勢が使われるのか。それはもっと少人数で足りる仕事ではないか」

 と思った形跡がないのは、それこそ不自然ではなかろうか。


 ただ、私はそれでも一つ、不思議に感じることがある。

 なぜ惣右衛門は、自分たちが山崎でなく京に向かうのは、

「信長様と合流するためだ」

 と思わなかったのだろうか。

 私には、家康と合流するなんてことよりは、そちらの方がはるかに自然な思い方だと思える。

 信長がごく近未来に自ら中国地方に出陣するというのは、明智軍兵士らにとっても共通認識ではなかったのか。

  
 そしてまた光秀は、いよいよ本能寺に攻撃命令を出そうというとき、誰を討てと命じたのだろうか。

 惣右衛門は、本能寺に侵入・攻撃をかけたとき、それでもまだターゲットは信長だと知らなかったのだろうか。

 それがわかる新史料が発見されたら(もう一人ぐらい、回想録を残しておいてくれた人がいたら)、本能寺の変は、またフィーバーを迎えるだろう。