プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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日本人の9割は「八村塁って日本人じゃないだろ、黒人だろ」って思ったろ?

 父はアフリカのベナン人・母は日本人の八村塁(はちむら るい)という日本人青年21歳(米ゴンザガ大学在学中)が――

 バスケット界最高峰と呼ばれる米NBAのドラフトで日本人史上初の1巡目指名をされたというのが、大きなニュースになっている。

 その身長は203センチとも204センチとも言われるから、ちょうどあのジャイアント馬場と同じくらいだ。


 ところで彼の写真を見ると、あの大坂なおみをはるかに上回る「黒人度」である。

 私は読心術を使えるわけではないが、この写真を見たほとんど全ての日本人の内心の反応は容易に推し量れる。

(あなただって簡単に推し量れたはずだ。)

 それは、


 こりゃモロに黒人だろ、日本人じゃないだろ、これが日本人か?


 というものである。 

 これがまさに、ほとんどの日本人の率直な(反射的な)第一反応ではないだろうか。

 ほとんど誰でもこう思った直後、「いやいやそんなことは思っちゃいけない」という“意識的な”第二反応が起こるのではなかろうか。

 言うまでもないが、こんなことは公的メディアでは決して言われない。

 そしてネット上でも、言う人がいるにはいても、出てきた瞬間ボコボコに叩かれるのはそれこそ言うまでもない。

 つまりここには、ネット上にさえ大きくは現れてはこない、日本人の「草の根の感情」があるということである。

 「八村塁って、これ日本人じゃないだろ」なんて言う人をボコボコに叩く人も、写真を見た瞬間の第一反応はそれと全く同じものだということを、疑うことは難しい。

 自分はそうじゃない、初めから何の引っかかりもなく八村類が日本人だということをストレートに受け入れられたという人は、かなりの確率でウソツキだろう。

 ついでに言うと、多くの平均的な日本人は、


 日本のスポーツ界に黒人の血を(遺伝子を)入れるのは、卑怯だ


 とさえ反射的に感じるのではなかろうか?

 しかしこれで日本には、大坂なおみと八村塁という、あからさまに黒人系である「黒人系日本人」の有名スポーツ選手2名が誕生したことになる。

 そして世に知られた黒人系の運動能力の高さを考えれば――

 今後、世界的舞台に立てる日本人スポーツ選手にますます黒人系が増えていくことは、別に大胆な予想でも何でもなかろう。

 だが、その結果日本のスポーツ界や社会がどうなるかには、2つのパターンがありそうだ。

 一つは、「日本人は単一民族」という長らく続いた平均的日本人の観念・信念・草の根の感情が、加速度的に崩壊していくことである。
 
 世界的舞台で活躍する「日本人」選手の3分の1でも黒人系ほか外国系になれば、もうそんな感情は維持していられないだろう。


 もう一つは、いよいよついに「日本人のスポーツ離れ」が進む、というパターンである。

 世界的舞台で活躍する「日本人」選手の3分の1でも明らかに黒人の顔と肌色をしていれば――

「これは日本人じゃない、だから応援できない」という草の根の(生理的な)感情が勝利を収める可能性も、充分にある。


 だいたい大坂なおみに湧き八村塁に湧く人たちのうち何人が、本当に「スポーツファン」なのだろうか。

 大坂なおみが好きだという人のうち何人が、テニスファンなのだろうか。

 八村塁をスゴいと讃える人の何人が、プロバスケットボールを普段から見ているのだろうか。

 他の国はどうなのか知らないが、どうも日本ではどんなスポーツでも、「日本人が/日本チームが活躍する」のでなければ、報道価値もなく応援価値も応援需要もないように思える。

 これはスポーツファンではなく「日本人ファン」というものではないか、と感じるのは、決してひねくれた見方というわけではあるまい。


 たぶんこれから日本人は、明らかに外見は(純正)日本人でなくても、「日本語を話し」「日本の名前を持つ」人なら日本人のうちだ――

 ということで、内心の折り合いを付けるのだろう。

 むろんこれには、直感的な第一反応を抑えて、意識的な第二反応を引き起こす必要がある。

 すなわち、草の根のホンネを抑えてタテマエを掲げる必要がある。

 そしてタテマエが広く社会に浸透すれば、次の世代の日本人は、想像するよりずっと早くそのタテマエがホンネに変わっているのかもしれない。

#KoToo運動広まる-「人はまず足元を(靴を)見る/見られる」は都市伝説ではないか?

 職場で女性が、(足を痛めやすい)パンプスを履くのを強制される――

 このことに反対する「#KuToo」運動というのが盛り上がっているそうだ。

 これに関連して、私は昔からずっと思っていたことがある。

 「人はまず足元を、靴を、見る/見られる」、だから靴は大事なんだ、という通念についてである。

 このセリフは、およそ日本人なら知らぬ者がないと言ってよいほど有名だ。

 だがしかし、世の中の人たちは、本当に「まず相手の靴を見る」なんてことをしているのだろうか?

 私はこれまで一度だって、「まず」相手の靴を見るなんてしたことがない。

 いや、そもそも相手の靴を見ること自体を「思いつかない」。(こういう言い方が、一番正確だと思う。)

 私が思うに、「まず」相手の靴を見ること、そもそも相手の靴を見るということ自体――

 非常に強い意志の力が必要だと感じるのである。


 いや、あなたにしても、本当に仕事中に相手の(来訪者の)靴なんて見てるのだろうか?

 私は普通に相手の顔を見るし、少なくとも上半身を見る。

 その下を見ようなんて、ほとんど考えつきもしない。

 しかし世の中の大勢の人たちは、そうじゃないのだろうか。

 「人はまず足元を(靴を)見る/見られる」というのは、非常に世の中に広まった都市伝説の一つではないだろうか?

 
 もし本当に「自分は相手の靴を見る」と言い切れる人がいるとすれば――

 それはまさに、「人はまず足元を(靴を)見る/見られる」というセリフにモロに影響されているからこそ、そう見るようになったのではないか。

 そうでなければ、まず靴を見るとかそもそも靴に目が行くとかいうのは、とても不自然な行為であるはずである。

 こんな都市伝説が日本に定着したのはたぶん、日本にはいかに「人の言うことに影響されやすい人」が多いかという現れなのだろう。 


 あと、よく聞くのが、「役所の職員がサンダルを履いて応対するなんて不愉快だ」とかいう話である。

 私はこれも不思議でたまらないのだが、あなたは本当にサンダルで応対されたら「失礼だ、不愉快だ」と思うのだろうか。

 私はそんなこと、全然感じない人である。

 何を履いて仕事していようが、何を履いて応対されようが、その人の態度自体が無礼でないのなら、感じるものは何もない人である。

 別にいいではないか、普通の靴は足が蒸れるに決まっているのだから、サンダルやスリッパを履いたって……

 こういうのもまた、このブログで何度も触れてきた、「そう思うからそう思う」の一例だろう。

 「サンダルで対応するのは失礼」と思うから、つまりそんなセリフに影響されたからこそ――

 そうじゃなかったら自力ではそんなこと思いつきさえしないのに、サンダルは失礼だなどと思うのである。

 
 ところで私は、思い返せば「服はスーツだが靴はスニーカー」という格好で職場に訪問してくる女性を、何人も見たことがある。

(私じゃない他の人を訪ねているのを、第三者として見たことがあるし今もよく見る。)


 むろん、それで彼女たちが無礼とか不真面目だとか感じたことは一度もない。

(実際、そういう人ではなさそうだ。)


 女性が仕事でスニーカーやシューズを履いていたら不愉快・不真面目・失礼だと感じる人って、どこか精神がおかしいのではないか――

 と思うのは、きっと私だけではないだろう。

 仕事中にアンタはどこ見てるんだ、ヒマなのか、相手の顔を見ろよ、と思うのは、決しておかしなこととは言えないだろう。

 彼らが軽度の精神異常者でないとすれば、たぶん「とっても感じやすい人」なのだろう。

 あまりに感じやすすぎて、他人の言うこととか世の雰囲気には、たやすく感化されるのだろう。

 ならば「#KuToo」運動がネットに広まれば、その人たちもたやすく「改宗」するような気がする……

吹田市警官襲撃・拳銃強奪犯もまた「ハズレくじ」or「人間地雷」

 6月16日の朝、吹田市の交番にいた若手警察官を襲撃し重体に至らしめたうえ拳銃を強奪した33歳の男は、翌17日に早くも逮捕された。

 なんでも彼、「私のやったことではありません」「これは病気がひどくなったせい、周りの人がひどくなったせいだ」として容疑を否認しているらしい。

 そして実際、精神疾患を患っていたことがあるようだ。

 確かに交番襲撃前にはウソの空き巣110番通報で警官をおびき出すなど、計画的なところも見られるが――

 しかしたとえ狂人であろうとも、これくらいの策略は考えつくし実行できることはあり得る。

 「嘘をつける狂人」というのは、確かにいるものである。(ありふれている、と言うべきか)


 なお、彼の父親は関西テレビの現役の常務であるとのこと。

 そもそも彼の身元が早期に特定できたのも、その父親が公開された防犯カメラ映像を見て「息子に似ている」と自ら警察に申し出たからである。

 さらに言うと彼は最近、学校時代の同級生たちを(同窓会を開くという名目で?)集めようともしていたらしい。

 その同級生の方々にとって、これは恐怖以外のなにものでもない。

 
 もう、こうした事件を聞くたびに感じるのは――

 つくづく、今を生きる人間の最大にして最も身近な懸念事項は、「ハズレくじを引くこと」だということである。


 関西テレビ常務の父親は、ハズレくじの子どもを引いた。

 彼の同級生は、ハズレくじの同級生を持った。

 彼を(精神障害者として?)雇用してくれたアルバイト先は、ハズレくじの人間を引いた。

 そして何より彼自身が、ハズレくじの自分を引いた。

 
 今、社会の世相の至るところに「ハズレくじ」が散らばっている。

 就職活動も採用活動も、

 近所づきあいも労働の場も、

 人生のパートナー選びや子どもを持つことも、

 およそ人間の経験する事柄の全ての軸が、全ての願いが、「ハズレくじを引かないこと」に凝縮されていると言って過言ではない。


 プロレス好きの人なら、かつてテリー・ゴディというレスラーが「人間魚雷」と称されていたことを知っているだろう。

 それに倣って言えば、現代人の最大かつ最も身近な恐れは、「人間地雷」と関わりを持ってしまうことである。

 日々のニュースを普通に見ているなら、ほとんどの事件ニュースはこの「人間地雷」が発生源だと思わないわけにはいかない。

  
 であるから、世間の人が

「やっぱり精神疾患はアブナイ」

精神障害者なんて絶対に雇わない」

 なんて思うのに、何の不思議があるだろう。

 それはむしろ、人として現代人として当然の感じ方だろう。

 
 であるから、企業が採用時に「そういう気配のある人を精神的スクリーニングする」とか、

 恋人をマッチングする際に「相手の遺伝子証明を求める」とか、

 チビ・ハゲ・デブ・ブサイクは「生まれてくる子どもが可哀想だから(つまり、ハズレくじを引かせたくないから)」初めからパートナー候補から除外するとか、

 そんなことをするのを妨げるものは(人間のホンネ的には)何もない。


 「ハズレくじを引かないこと」――

 これがこれからの人間の最大の課題であって、これを中心にしてこそ社会は動く。

 それは人権派にとって恐るべきディストピアとなるには違いないが、しかし押しとどめようもない時代の流れである。

 結局のところ、それこそが人類の最後の願いであり、克服すべき課題となるだろうから……

 そして人権派すら、「自分だけは」ハズレくじに当たりたくないと願うし、実際にそう行動するだろうからである。