プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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コンビニ無断駐車で損害賠償920万円-「小さな」犯罪者と割れ窓理論とマスコミの役割

 7月26日の大阪地裁で、大阪府茨木市のコンビニの駐車場に

●車2台を

●1年7ヶ月で

●合計1万時間超

 無断駐車し続けた男に対し、慰謝料込みの損害賠償920万円の支払いを命じる判決が言い渡された。

 1時間の駐車料を700円としての額とのこと。

www.sankei.com


 ちょっと詳しく言うと、車Aは平成25年8月~27年2月の1年7ヶ月で合計7,472時間であるから――

 7,472時間÷1年7ヶ月÷30日= 1日当たり約13時間 となる。

 これに対しコンビニ経営者は張り紙などでさんざん注意していたが、止めるどころか平成26年6月以降は別の車Bも3,694時間に渡って無断駐車したというのだから、太い神経である。

 車Bの無断駐車も平成27年2月までとすれば、

 3,694時間÷9ヶ月÷30日= 1日当たり約13時間強。

 
 2台ともほぼ同じの駐車時間であり、1日の残り11時間は「仕事に行っているのだろう」と推測できる。ちょうどそれくらいの時間である。


 さてこの無断駐車男、たぶんこのコンビニの近所に住んでいる。

 それも歩いて数分の距離だろう。

 コンビニ経営者氏は地元の人だろうから、顔見知りであってもご近所であっても全然おかしくない。

 そして車1台ではなく2台である(2台を彼が所有している)点からは、この無断駐車が家族ぐるみで行われた――

 妻や子も同調して無断駐車し始めた、というような展開だったと思われる。

(もしくは彼が勤め人でなく自営業っぽい仕事をしており、店側の注意に腹を立て、従業員にもそこへ駐めるよう指示したとか……)

 
 おそらく「コンビニへの無断駐車」ということについて、今回の事件は氷山の一角なのだろう。

 こういうことは日本全国のコンビニで――広い駐車場を備える店舗では特に――人知れず起こっているのだろう。

 しかし大抵のコンビニ経営者は、注意することすら怖いので見て見ぬフリをしているケースも多そうだ。

 
 だがこれ、犯罪として訴追されてこそいない(と思う)ものの、やってることは犯罪に等しい。

 立ちションベンすら軽犯罪なのだから、それよりはずっと罪状が重い。

 これほどの無断駐車をやる人間は、もはや犯罪者と言われても仕方ないだろう。

 割れた窓を放置しておけば大勢の人間に “あ、割っていいんだ” と思わせどんどん窓が割られていくから、1枚の窓が割られたらすぐ直せ――

 引いては「小さな犯罪を放っておけばその件数がどんどん増え、しかもエスカレートしていくから、小さな犯罪こそ取り締まれ」

 というのが、割れ窓理論である。

 そして確かに、殺人事件のニュースがたくさん流れても殺人抑止効果はほとんどないが、

 こういう「小さな犯罪」のニュースが流れれば、同類の小さな犯罪がいくらか抑止される効果はあるように思う。

 やる方もやられる方も、

 「あ、オレもあんまりこういうことやってたらマズいな」とか、

 「じゃあ自分も提訴してみよう、少なくとも注意してみよう、正しいことだと証明されてるんだから」とか、

 やっぱり思うだろうからである。

 もし世の報道機関が、昔のように「社会の木鐸」の役割を果たしたいと思うなら、こういう「小さな犯罪」の報道にこそ力を入れるべきなのかもしれない……

アマゾン流域「文明未接触部族最後の1人」の映像公開-これが「最後の1人の日本人」だったら

 7月19日、ブラジルはアマゾン川流域のジャングルで、まだ文明と接したことのない部族「最後の一人」と見られる50代?男性の映像が公開された。

 もっとも文明未接触とはいえ、彼の場合は1995年にブラジル農家に仲間5人を殺されて一人きりになったということだから、全くの未接触とは言いがたい。

www.newsweekjapan.jp


 彼が(たぶん石斧で)木を切るこの短い映像を見て気づくのは――

 彼が「あー」とか「やれやれ」とか「ふう」とか「暑い…」とか、いかにも誰もが口にしそうなセリフを、いやその他のどんな言葉も発していないように見えることだ。

(私なら絶対に言うと思う。)

 これはアマゾン奥地の部族なら普通のことなのか、それとも23年もの一人暮らしで言葉を発することすら忘れてしまったのか、判断が付きがたい。

 しかし、もし本当にずっと一人きりならば、独り言を言うようなクセのある人間はおそらく気が狂って死んでしまっているのだろう。
 
 それとも人間は案外孤独には耐えられるもので、そうなったらそうなったで現代日本人も(少なくとも精神的には)同じように生きていけるのだろうか……


 それにしても――

 私には全然別の世界で生きる彼の心中を察することなどできないが、彼にもやっぱり「将来への不安」があるとは思う。

 自分が死ぬときは誰もそばにはいてくれず、「動けなくなって動物に生きたまま食べられる」最期を迎えるに違いないことは、やっぱり彼にもわかってるのではなかろうか。

 さて、そして、彼がそんな最期を遂げるのは「こっちの世界」にもわかりきっているのだが――

 それでも彼と接触して(ムリヤリにでも)救い出し、彼の部族の言語や伝承を記録しておかないというのは、本当にそれでいいものだろうか。

 たぶん世の中の大部分の人は、「個人の意思を尊重して接触しないでおく」のが正しいことと思うだろう。

 しかしそれは、ジャングルでの野垂れ死にを是認するということである。

(重ねて言うがおそらくは、彼は動物に生きたまま食われて死ぬのだ。) 

 
 遠い将来(そんなに遠くないかもしれない)、「最後の一人の日本人」が四国奥地の山中に生きているのが確認されたとして――

 彼を放置して野垂れ死にさせるのは、いいことなのか悪いことなのか。

 これは脳死問題にも匹敵する倫理的難問だと思われる。


 しかしもう一つ確かなのは、アマゾン現住民だろうと日本人だろうと――

 最後の一人が死んだとて、他の世界の大部分の人にはたいして関心のないことだ、ということだろう。

 どこの部族やどの民族が絶えようと、それはただのニュースの一つである。

 この世から誰がいなくなろうと、その誰かがいない世界が続くだけ――残った人たちにとっては、そんなのは「ただの現実」それも「あまり興味のない現実」に過ぎなくなる。

 それこそ世捨て人のようなことを言うようだが、世の中そんなものなのだと誰が感じずにいられようか……

杉田水脈「LGBTには生産性がない」⇒ しかし「重度障害者には生産性がない」とは言わない理由

 自民党衆議院議員杉田水脈(すぎた みお)という人は、高頻度で炎上発言・炎上投稿を行っている人らしい。

 『新潮45』2018年8月号に寄せた「『LGBT』支援の度が過ぎる」という論文で、

LGBTに対する差別はそんなに存在しない

LGBTは子どもを作らないから生産性がない。彼らのために税金を使うのに賛同が得られるだろうか

 と書いたことで、またまた大批判を浴びている。

blogos.com


 このうち「LGBTに対する差別はそんなに存在しない」というのはともかく、LGBTは子どもを作らないから生産性がない」というのは、完全に間違いである。

 世界史をほんの少し詳しく知っている人なら、男性同性愛者であって歴史に残る業績・功績を挙げた人を数人はたちどころに挙げられるだろう。

 よもや杉田氏も、そういう「偉人」に生産性がなかったとは口が裂けても言えまい。

(もっとも、女性同性愛者についてはそんなに挙げることができないのは事実だが……)


 また、別に偉人を持ち出さないとしても――

 異性愛者でない同性愛者らが生産性がないなんて、どう考えてもあり得ないはずだ。

 なにせ彼らは「子どもを産み育てる」という行為をしないのだから、そのぶん時間と労力を「仕事」につぎ込めるのはわかりきっている。

(まさか、彼らがただ無為徒食しているだなんてことは言えないだろう。)


 卑近な例で言えば、子どもを持つ人が子育てのために削らざるを得ない「仕事」の時間・分量を、子どもを持たない人が埋め合わせているということだ。

 これはまさに日本中、どこの職場でも普通に起こっていることである。

 そして子どもを持たない人が納めた税金は、当然ながら(彼らの子ではない、赤の他人の)子育て支援のために回されている。

 それなのにLGBTに生産性がないなんて言うのは、どうかしていると言っていい領域ではないか?


 さて、それで――

 もう一つ杉田氏が口が裂けても言えないのは、

「重度障害者には生産性がない。彼らのために税金を使うのに賛同が得られるだろうか」

 ということである。

 もちろん杉田氏は、こんなことは言えない。

 「言えない」ではなく「言わない」のだと言うかもしれないが、それはなぜかと言えば、言う度胸がないからである。

 LGBTは子どもを作らないから生産性がない、だから彼らのために税金を使うのは疑問だ、と言うならば――

 重度障害者についてはなおそう言える、というのが当然の流れである。

 それは違うと言うならば、なぜ違うのか説明してみなければならないが、しかし大多数が納得する形でそんなことをするのはまず無理だろう。


 私が重度障害者やLGBTを差別するのに反対し、「ある程度の」税金を支払うのも納得するのは、私が重度障害者やLGBTに生まれなかったのはただの偶然だと(当たり前のことながら)わかっているからである。

 私やあなたが

●白人でも黒人でもなく黄色人種に生まれたこと、

●今の時代の日本人に生まれたこと、

●(今のところは)障害者でない健常者であること、

●(今のところは)LGBTでないこと、

●今の程度のアタマで生まれてきたこと、

 などなど諸々の全ては、ひとえにただの偶然である。

 もし杉田氏がたまたまLGBTの要素を持って生まれてきたなら、それはつまり生産性がなく税金を使うべきでないことになるはずだ。

(親戚や友人、彼女の子どもがそうだとしても同様になる。)


 むろんというか何というか、もし私がLGBTの人に告白されれば、それは大迷惑に感じる。

 きっと「おぞましい」とも感じるだろう。

 しかしそうでない「中立の他人」である限り、LGBTや重度障害者に(ある程度の)税金を使うことに反対はしない。

 そして彼らに「生産性がない」なんて、全く夢にも思わない。

 いや、どちらかと言えば「コイツ死ねばいいのに」と思うような人間は、結婚して子どもを産んでいる人の方により多いのではあるまいか……?