7月19日、ブラジルはアマゾン川流域のジャングルで、まだ文明と接したことのない部族「最後の一人」と見られる50代?男性の映像が公開された。
もっとも文明未接触とはいえ、彼の場合は1995年にブラジル農家に仲間5人を殺されて一人きりになったということだから、全くの未接触とは言いがたい。
彼が(たぶん石斧で)木を切るこの短い映像を見て気づくのは――
彼が「あー」とか「やれやれ」とか「ふう」とか「暑い…」とか、いかにも誰もが口にしそうなセリフを、いやその他のどんな言葉も発していないように見えることだ。
(私なら絶対に言うと思う。)
これはアマゾン奥地の部族なら普通のことなのか、それとも23年もの一人暮らしで言葉を発することすら忘れてしまったのか、判断が付きがたい。
しかし、もし本当にずっと一人きりならば、独り言を言うようなクセのある人間はおそらく気が狂って死んでしまっているのだろう。
それとも人間は案外孤独には耐えられるもので、そうなったらそうなったで現代日本人も(少なくとも精神的には)同じように生きていけるのだろうか……
それにしても――
私には全然別の世界で生きる彼の心中を察することなどできないが、彼にもやっぱり「将来への不安」があるとは思う。
自分が死ぬときは誰もそばにはいてくれず、「動けなくなって動物に生きたまま食べられる」最期を迎えるに違いないことは、やっぱり彼にもわかってるのではなかろうか。
さて、そして、彼がそんな最期を遂げるのは「こっちの世界」にもわかりきっているのだが――
それでも彼と接触して(ムリヤリにでも)救い出し、彼の部族の言語や伝承を記録しておかないというのは、本当にそれでいいものだろうか。
たぶん世の中の大部分の人は、「個人の意思を尊重して接触しないでおく」のが正しいことと思うだろう。
しかしそれは、ジャングルでの野垂れ死にを是認するということである。
(重ねて言うがおそらくは、彼は動物に生きたまま食われて死ぬのだ。)
遠い将来(そんなに遠くないかもしれない)、「最後の一人の日本人」が四国奥地の山中に生きているのが確認されたとして――
彼を放置して野垂れ死にさせるのは、いいことなのか悪いことなのか。
これは脳死問題にも匹敵する倫理的難問だと思われる。
しかしもう一つ確かなのは、アマゾン現住民だろうと日本人だろうと――
最後の一人が死んだとて、他の世界の大部分の人にはたいして関心のないことだ、ということだろう。
どこの部族やどの民族が絶えようと、それはただのニュースの一つである。
この世から誰がいなくなろうと、その誰かがいない世界が続くだけ――残った人たちにとっては、そんなのは「ただの現実」それも「あまり興味のない現実」に過ぎなくなる。
それこそ世捨て人のようなことを言うようだが、世の中そんなものなのだと誰が感じずにいられようか……