プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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LGBT(同性愛者ら)の興隆とイスラム圏との対決

 最近、小林麻央と並んでネットニュースで見ない日がないのは、LGBT(レズ、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダー)という言葉である。
 6月14日にはアイルランドで、同性愛を公言しているレオ・バラッカー氏(38歳)が首相に選出された。
 そうかと思うと6月9日にはイスラエルのテルアビブで同性愛者らが人権を訴える「プライド・パレード」が行われ、20万人を超える参加者があったという。
 
 この記事によると、なんとテルアビブの人口25万人の4分の1が同性愛者とも言われているそうだ。
 しかもさらに、イスラエル政府自らが観光振興を狙ってパレードのPRを行っているという。
 いやはや、ヨーロッパは何と進んでいることだろうか。
 日本の“進歩派”が、「それに比べて日本はものすごく遅れてる」と言いたくなるのも無理はない。

 思えば欧米の首脳が同性愛者だというのは、もはや珍しいニュースでもなくなっている。
 2010年にはアイスランドの女性首相ヨハンナ・シグルザルドッティル氏(当時67歳)が同性婚を行い、
 2015年にはルクセンブルクのグザヴィエ・ベッテル首相(当時42歳)がやはり男性との同性婚を行っている。
 かつては――それもけっこう最近までは――「コイツは同性愛者だ」との秘密を握られることは、欧米人にとっても致命的だった。
 政治家ともなればなおさらで、それをネタにスパイを引き受けさせられたり、脅迫・ゆすりに屈服させられた人もさぞ多かったことだろう。
 しかし時代は変わり、もはや同性愛は政治家に取ってすら秘密にするものでなくなった。
 これは外国・政敵・マフィアたちからの脅迫の種を無効化するものであり、それだけでも喜ばしいことと言える。
(それにしてもあの、世界有数の戦闘国家かつユダヤ教を国教とするイスラエルまでもが、同性愛パレードを進んで宣伝するとは……
 本当に時代はつくづく変わったものだ。)
  
 しかしもちろん、世界は同性愛を是とする人々ばかりではない。
 冷戦時代の「東西陣営」、「資本主義国と共産主義国」、「自由主義国とファシズム国」という区別に倣えば――
 現代の世界は、「同性愛を容認・擁護する陣営」と「同性愛を侮蔑・攻撃する陣営」に区分けすることができそうでもある。
 そしておそらくわが日本は、まだ後者の陣営に属しているのだろう。(政府が、ではなく国民が、である。)

 思うにイスラム世界の人々は、この手のニュースが届くたびに「やっぱり欧米は大悪魔。絶対共存できん」とか思っているのではなかろうか?
 そういえばなぜイスラム国は、テルアビブでの同性愛パレードにテロを仕掛けなかったのだろう。
(さらにそういえば、なぜイスラム国がイスラエルでテロを起こしたというニュースを聞くことがないのだろう。
 そんなにイスラエルの警備は堅いのか?)

 同性愛の祭典なんて、イスラム過激派にとっては許しがたい冒涜であり参加者は皆殺しにする勢いであってしかるべきだ。
 ロンドン橋で車を暴走させナイフを振り回す連中の裏で糸を引く場合ではなく、まさにこういうイベントにこそ精力を集中させるべきではないか。
 しかもはっきり言って、もし同性愛イベントを流血の惨事に叩き込めば、世界中から大きな支持と共感を得られる見込みが高いだろうに……
 いい加減イスラム国はテロをやるなら、信念と一貫性を持ってやるべきである。
 狙うなら同性愛を公言している欧米首脳を狙うべきである。同性愛イベントで自爆テロをやるべきである。
 発狂した人間が錯乱してやるような、ただの通り魔と同じレベルのチンケ犯罪の後援をしてるヒマなどあるのか。
 イスラム国が戦い滅ぼそうとしている相手は、「同性愛を容認・擁護する陣営」と完全なまでに重なっているはずだ。
 まさか今更、「そんなことしたら世界の反応が怖い」などとビビッているわけでもあるまい。
 
 そして、前にも同じようなことを書いたのだが――
 LGBTを容認・擁護する国や組織や個々人は、イスラム国はもちろんのこと、イスラム圏やヒンズー圏や一部キリスト教陣営に対しても、はっきり対決の姿勢を示すべきである。

 これは多くの人が不思議にも不当にも思っているだろうが――
 国連人権委員会なんかはなぜ、日本の女性の人権状況については公然と非難するのに、イスラム諸国やインドなど日本の比じゃない国々に対しては黙って何も言わないのだろうか。
(もちろん、何も言ってないわけではないかもしれない。私が知らないだけかもしれない。
 しかし、そんなに声高に言ってないのは確かに思える。)

 まさか、女性の地位が低いのも性的少数者に厳しいのも、「宗教だったら仕方ない」とか思っているのか。
 それとも「イスラム圏もヒンズー圏も“世界”のうちに入らない」からどうでもいいのか。
 日本に対して強い態度に出ているのは、「一応日本は“世界”のうちなので、言いやすいところに言っている」ということなのか。
 
 同性愛や性的少数者を認めるか認めないかは、見方によっては資本主義と共産主義の違いよりも大きい。
 世界は今でも、冷戦時代とは違った形で二分されているのである。

「嫁」と「主人」は意識が低いか、ならば「目上」と「先生」はどうか-川上未映子の言葉論

 芥川賞作家の川上未映子 氏(40歳)は、「嫁」と「主人」という呼び方が心底嫌いだそうである。
 
 重ねて3月には朝日新聞に、「『主人』や『嫁』という言葉は賞味期限切れ」との寄稿もしている。
 そしてこれを元にライブドアニュース(abemaTIMES)では、リクルートブライダル総研の行った「他人に話す時の配偶者の呼び方」の調査結果記事が載っている。

 この「問題」については、かなり前から――それこそ何十年も前から――ネットや新聞などで間欠的に取り上げられてきた記憶がある。
 しかし、言ってみればこういう“使い古された話題”も、芥川賞作家が言えばやっぱりまた話題になり議論にもなる。
 まこと世の中には権威主義者が溢れている――と、むしろそういう感想の方を強く抱いてしまう。
 地位や名声を求めてガツガツする人間は例外なく嫌われるものだが、しかしガツガツしたくもなろうというものだ。
 自分が思うことを書いたり言ったりすれば、それで世間が動く。
 これは多くの人間にとって、いや全ての人間にとって、こたえられない快感だろう。

 それはともかく、他人に対して妻のことを「嫁」と言ったり、夫のことを「主人」と呼ぶ人間は、依然世の中の多数派である。
 ではそういう人は意識が低いか。
 彼ら彼女らは無意識の性差別主義者であり、男女の役割を固定化させる“悪行”に無意識に加担する者であるか。

 どうもこれは、世の中に無数に存在する、「そう思うからそう思う」現象の一つではないかと思われる。
 「嫁」と「主人」が差別語で不快な言葉と思うからそう思うのであり、思わなければ思わないのではないか。
 実際どちらかというと、妻のことを「嫁」と呼ぶ夫の過半数くらいは、むしろ嫁にキン●マを握られているくらいではないだろうか?
(そしてまた、嫁と呼ばない夫より、妻に対する愛情が劣っているとも断言しがたい。
 だいたいそんな調査ができるとも思われない。)

 ここでちょっと気になるのは、川上未映子氏は「目上」とか「先生」とかいう呼び方をどう思っているのだろうということである。
 おそらく川上氏は、人間は平等である、人間に上下はない、という理念を(他の人間と同様に)持っていると思う。
 だったら「目上」の人間はいないはず――いてはならないはずであり、そういう言葉こそ賞味期限切れで廃棄すべきだと主張するのが当たり前だろう。
 別に何についてまで意見を言うべきだ、などとは言わないが、「嫁」と「主人」という言葉をこの世からなくすべきだと主張するなら、「目上」という言葉も同様にすべきだと主張するよう期待したいものである。
 また川上氏は作家であり(夫の阿部和重氏も作家である)、おそらく編集者や周りの人からは「先生」と呼ばれていることと思う。
 川上氏は、

「同業者との会話のなかで「嫁」とか「主人」とかっていう言葉が出ると、「わたしに主人はいません」とか「それはありえませんよ」と、別に言いたくないけど、その場で即座に指摘するようにしている。」

 そうなのだが、では自分が「先生」と呼ばれたとき、

「私はあなたの先生ではありません。」
 
 と即座に指摘しているのだろうか。

 こんなことを言うのも、世の中には「先生」とか「職名・肩書き」で呼ばれないと(呼ばないと)「失礼だ!」と思う人が実にたくさんいるからである。
 「さん」付けで呼ぶのは無礼だと怒る人がいるからである。
 そしてまた、人間は平等だと信じていながらそれでも「自分だけは例外」という人も多いからである。
 まさかとは思うが、川上氏は「先生」と呼ばれてそれを平然と受け止めているのだろうか。
 初対面の人に「川上さん」と呼ばれて、ムッとしはしないのだろうか……?

 話を本題に戻すと、冒頭に書いたとおり「嫁・主人という言い方は止めろ」というのは昔から言われてきたことである。
 しかしそれでもなくならないのは、一つ実際的な理由あるいは難題があるからだ(と思う)。
 それは、「第三者が妻に対してその夫のことに触れるとき、『ご主人』以外にどんな代案があるか」という問題である。
 第三者が夫に用事があって電話をかける。
 しかし電話に出たのは妻。
 そこで第三者は「夫の方おられますか?」と言うわけにはいかない。
 「旦那さんおられますか?」はそれこそ無礼。
 では夫の本名をあらかじめ知っておいて「太郎さん(様)おられますか?」と言えばいいかというと――
 この本名を呼ぶことをもって無礼とする人間も世の中には多いのである。
 
 この逆パターンで、妻に用事があって夫が出た場合はどうか。
 おそらく川上氏なら、「奥様おられますか?」にはダメ出しをするだろう。
 「奥様」「奥さん」には差別的意味(女は家の奥にいるべきだという価値観の反映)を嗅ぎ取るに決まっているからだ。
 では、これこそどう呼べばいいのか……

 しかし、つくづく思うのだが――
 こういうことを考えると、やっぱり人間は人と接しないことが一番ではないかと思えてくる。
 何を言ってもどう呼んでも、それを不快に感じる人がいるのである。
 もしあなたが川上氏(や、彼女に強く共感する人たち)に用事があって電話をかけて「ご主人おられますか」と言おうものなら、「意識の低い奴」と怒りを買って侮蔑されるのだ。
 くわばらくわばら、人と接すまいぞ、接すまいぞ…… 
 
 なお、「問題提起をする側は、批判する側は、必ずしも代案を出さなくてもよい」というのは、最近非常に良く広まった概念のように思える。
(沖縄基地問題で日・米政府のやり方に反対する者は、必ずしも代案を出さなくてもいい、とか。)
 なるほど問題提起と批判には、それだけで耳を傾ける価値があるというのは本当かもしれない。
 しかし致命的なのは、結局のところ代案なしでは説得力が欠け、従来のやり方や考え方に取って代わることはほぼ絶対に不可能だという点である。
 地球の周りを太陽など他の星が回るとしたプトレマイオス天文学は、星の運行と辻褄を合わせるため、次々と周転円(地球を回る星の周りを、さらに他の星が回るとした)を付け加えていった。
 これを「ホントに自然ってそんなに複雑なのかよ」と批判したり疑問に感じたりするのは、誰にでもできたことだったろう。
 しかしプトレマイオス天文学が捨て去られたのは、太陽の周りを地球など他の星が回るとしたコペルニクス天文学という代案が現れたからである。
 ダーウィンに始まる進化論は間違っている、との言説は星の数ほど出てきてはいるが、しかしやっぱり進化論を引きずり下ろすことはできていない。
 むろん、納得的な代案を提示できていないからである。
 それと同じく、「第三者が夫・妻のことをどう呼ぶか」という第三者呼称問題に代案を立てない限り、“嫁・主人・奥さん”という呼び方を廃絶することはできないように思われる。
 川上氏と彼女に共感する人たちには、ぜひコペルニクスのような代案を提起することを期待したい。

テヘラン銃撃戦テロの「快挙」-“中東の北朝鮮”イランvsイスラム国、本格開戦?

 6月7日、イランの首都テヘランにおいて、国会議事堂と故ホメイニ師の霊廟がテロリストに襲撃されるという事件が起こった。
 国会議事堂では自動小銃などで武装した数人が銃を乱射、治安部隊がこれを制圧したが犯人の1人は自爆したらしい。
 ホメイニ霊廟の襲撃はその30分後で、男2人・女2人が銃を乱射。
 男1人は銃撃戦で死亡、女1人は発砲後に自爆、男1人は毒をあおって自殺し、女1人が拘束されたという。
 
 いやあ、これは不謹慎ながら、久々に血湧き肉躍るニュースである。
 イランと言えば「中東の北朝鮮」と言っていいほど北朝鮮によく似た、統制・核開発国家である。
 その首都、しかも国会議事堂とホメイニ霊廟でこんなテロ事件が起こるなんて、予測していた人がいただろうか。
 これはまるで、北朝鮮の首席宮殿と金日成霊廟でテロが起こったのと同じようなものだ。

 そして誰もが予測していたように、さっそくイスラム国(ISIS)が「自分たちがやった」と声明を出した。
 イスラム国と言えば、たとえ自分がやったことではなくても、めぼしい殺人事件が起きれば自分または共鳴者がやったとすぐに言う「尻馬戦略」が有名である。
 しかしこの件に限っては、事実と見てよいのではなかろうか。
 イスラム国は(異端の色が濃いとはいえ)一応イスラムスンニ派である。
 対するイランは、スンニ派の宿敵であるシーア派イスラム教を国教としている。
 イスラム国にとっては欧米諸国はもちろんのことながら、イランなんて絶対に攻撃しなくてはならない不倶戴天の仇敵なのだ。
 
 つい先日のブログ記事で「テロをやるなら先進国に限る(それ以外の国で何人殺しても世界のベタ記事にしかならないから)」と書いたが――

 しかし、イランでテロとなれば話は別で例外である。
 何と言っても、「あの」イランに風穴を開けたのだ。
 繰り返しになるがこれは、北朝鮮国内でテロ事件を起こすのと同じようなものである。
(しかし、確かに北朝鮮でそれをやる方がずっと難易度は高いだろう)
 
 またまた不謹慎な言い方になるが、これは信じられないような「快挙」であり「偉業」である。
 もし本件が本当にイスラム国のやったことだとするなら、正直ちょっとイスラム国を見直す気分になってしまう。
 何と言ってもそれは、しょせんイスラム国なんて「車で暴走してナイフで人を刺す」ような「お手軽・安価な」テロしかできないのではなく――
 「あの」イランに武器を密送し、人員も送り込み(あるいは現地人を取り込み・徴募し)、国内で一番警備の堅いはずの場所に侵入させるという計画力・実行力を持つ証拠になるからである。
 むろん襲撃者の人数から言って、イラン政府転覆とか要人皆殺しなんてことを狙っていたわけでないのは明らかだ。
 それはいわば「命がけのアピール」であり、襲撃者たちもそれで納得したのだろう。
 
 折しも6月5日には、サウジアラビアバーレーンアラブ首長国連邦UAE)、エジプト、イエメン、モルディブの6カ国が、カタールとの断交を発表したばかり。 
カタールは、日本サッカー史で有名な“ドーハの悲劇”の舞台である。ドーハはカタールの首都)
 その理由として、カタールの「テロリストへの支援」及び「イランとの(親密な・隠微な)関係」が挙げられている。
 このタイミングでイランテロ事件が起こったことに、果たして何らかの関係性があるのか、もちろん私にわかるわけがない。
 しかしこの事件、「イラン vs イスラム国」の構図を新しいステージへ引き上げることになるのは請け合いである。
 不謹慎ついでに言うと、中東情勢はにわかにエキサイティングで面白いことになってきた。
 しかし中東情勢において、あのイスラエルがまるで脇役のようになってしまうなど……
 つくづく、時代は変わったものだ。