プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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“国民的闘病ヒロイン”小林麻央の「Xデー」と「共感・応援・勇気を与える」

 ここ最近、ネットニュースで小林麻央(34歳)のことが出ていない日はない。
(なお、この記事では敬称を略する。)
 何だか彼女の病状は全国民的関心事であるかのようで、もし彼女が亡くなれば「大喪の礼」が行われるんじゃないかと思ってしまうほどだ。
 小林麻央は元女子アナで、今は歌舞伎役者(俳優)の11代目・市川海老蔵(39歳)の妻である。
 私は女子アナにはとんと無関心で(別に誇るようなことでもないが)、キャスター時代の彼女のことなど何も知らない。
(たぶん、一度もテレビで見たことがない。)
 しかしこれほどネットニュースにキャスター時代の顔写真が出ていれば、嫌でも憶えてしまうというものだ。
 
 それにしてもガンに罹った彼女のことを、日本国民はそんなに注視しているのだろうか。
 仮にそうでないとしても、どうしてこんなに(マスコミばかりかネットニュース発信者たちまで)報道価値があると思っているのだろうか。
 なんたって、ただ彼女がブログを更新したというだけでトップニュースになるのである。
 需要があるから報道されるのか、報道されるから需要が喚起されるのか、世の中にはそのどちらなのかよくわからないことがゴマンとあるものだが、この件は近年におけるその代表例のように感じる。  

 さて、有名人の闘病報道というのは、しばしば「同じ病気の人たちに勇気を与える」とか言われる。
 しかし私はひねくれているのだろうか――
 まともな神経を持つガン患者なら、「同じ病気なのに、この人は何でこんなに注目されて応援されるのか。なんで自分は違うのか」と、かえって絶望的な気持ちになるんじゃないかと感じるのである。
 これは、ねじけた見方だろうか。陰湿下劣な心だろうか。
 私には、けっこう普遍的で人間的な感じ方だと思えるのだが……

 彼女が注目され、ニュース価値があると見なされるのは、有名人だからである。(そして有名人の妻だからでもある。)
 なぜ有名人になったかと言えば全国地上波テレビの女子アナだったからであり、なぜ女子アナになれたかと言えば、根源的には美人に生まれついたからである。
 もし彼女がヘチャムクレのブスだったりそこらのイモネーチャンだったとすれば、万に一つも女子アナになるチャンスはなかったろう。
 そしてもちろん、市川海老蔵も彼女と結婚はしなかったろう。
(たとえ彼女の心根がブスだろうと美人だろうと全く変わらないにしても、である。
 これは市川海老蔵への皮肉や批判ではない。ほとんどの人間にとって当たり前のことだ。)

 現代の貴族階級は、生まれついた家柄では決まらない。
 それは生まれつきの能力で決まる。容姿も能力の一つである。(「美的能力」とでも言おうか。)
 かつては物的財産を持たざる者が「無産者」「プロレタリア」と呼ばれたが、今は生まれながらに大した能力を持たない者を「能力無産者」「能力プロレタリア」と呼ぶべきだろう。
 しかも現代のプロレタリアたちは、社会的不正がどうとかいう“言い訳”や“義憤”さえ持ち得ないという絶望ぶりだ。
 (美的)能力がある者は病気になっても報道されて共感や応援や賞賛を集めるが、能力がなくそれ故に知名度のない一般人は、同じ病気になっても世の中に一顧だにされもしない。
 いやはやまったく現代とは、格差社会の時代である。
 日本では希望格差や収入格差が拡大していると言われるが、最大かつ解決不能の格差とは「能力格差」だと思わないではいられない。

 小林麻央は5月29日、1ヶ月ぶりに退院して自宅に戻ったという。
 普通に考えるなら、これは「終末医療」に切り替わったのだなと誰でも感じる。
 もっとも今年1月にはすでに余命3ヶ月を宣告されていたらしいから、その宣告期限はやや超えている。
 私は彼女の回復を願うほど彼女のことを知りもしないし、もちろん付き合いなんてない。
 しかし言うまでもなく、子どもたちのことを考えれば回復した方がいいに決まっている。
 それでも彼女が亡くなったとき、全国のガン患者やその家族はどんなことを想うのだろう。
 わが事のように悲しみ残念に思うのか、自分とのあまりの格差に涙するのか、それとも全然何の影響も与えないのか――
 現代の王族・貴族階級のヒロインの死に対し、現代の庶民・プロレタリアは昔の庶民のように「美しい物語」を語り継いだりするのだろうか?

ソフトバンク、AI採用開始 その2-若者の下克上及び「恋愛・婚活に遺伝子証明書が要る時代」

 前回記事で引用した一連の過去記事 “「AI人事」の時代・適材適所の完成とネオ身分社会の到来” のとおり、AIが最も威力を発揮するのはマーケティング方面ではなく、むしろ採用・処遇・人材配置といった人事方面の方だと思われる。
 つまり一言で言うと、今後はますます「生まれながらに頭のいい人」が選ばれる時代になる、ということである。
 「人間がAIに選別される」と言われれば100%の人が“暗黒の未来社会”というフレーズを思い浮かべるわけだが、しかし一面このことは、とても面白い事態を惹起するのではないかとも考えられる。
 これからの人間はAIで会社に選別される。
 真に優秀な人間、生まれながらに頭がいいとAI判定された人間――その大部分はむろん若者――しか、一流・有力企業に入ることはできないだろう。
 そうでない人間はあらかじめAIで高精度に弾かれるだろう。
 しかし、ということは、その会社の「AI判定以前」の先輩・上司たちは「AI判定世代」からどう思われるか想像に難くない。
 そう、間違いなくその先輩・上司たちは、「ロクな判定も受けてない(真に優秀かどうかの保証がない)、ヌルいジジィ・ババァの世代」と後輩たちに見なされるのが自然である。
 いや、だって、実際それは真実ではないか?

 もしかするとAI採用の普及は、日本社会に脈々として続いてきた年功序列体制を、ついに打破する起爆剤となるかもしれない。
 少壮青年将校が上を蔑(なみ)し、下克上が一般化する戦国の世が再来するかもしれない。 
実力主義とは、結局そういう世の中になることである。
 生まれながらの優秀者が凡人・凡才を追い落として上に立つことである。)

 しかし反面、AI判定の普及が就職や出世だけでなく、個人のプライベートな人生にも大きく影響するだろうこともまた明白だろう。
 端的に言って近未来の社会では、恋愛・結婚するにもAI判定が用いられることになると思う。
 「生まれながらの優秀者」であり「生まれながらの欠陥を持っていない人」であることを証する何かが、必要になってくると思われる。
(逆に言うと、あなたを含むその他の人が、他の誰かにそういうものを求めてくるのだ。)

 いずれ見合いや婚活の場では、自分の「遺伝子証明書」なんかを提出するようになるだろう。
 遺伝性の病気(糖尿病とか無数にある)の素因とか、精神病の家系であるとか、そういうものを持っていないことを証する書面をお互いが取り交わすのが普通になっても、全くおかしなことではない。
 きっとあなたは「そんなこととんでもない、許されない」と感じるだろうが――
 しかし、もしそんなことが可能であれば、やっぱり相手に求める(少なくとも、求めたいと思う)に決まっているのではないか?

 誰も好き好んで顔や頭が悪い人間と結婚したくないように、遺伝病・精神病の素因を持つ人間を結婚相手に持ちたくはない。
 子どもや子孫にそんなのを受け継がせたくはない。
 これは非常に危険思想で差別発言であるかに見えるが、しかし至極当たり前な人情であり親心であり、父母の願いなのではないか?
 もちろんあなたも内心は、きっとそう思っているのではないか?
 むろんAI判定で頭の良さも人付き合いの良さも折り紙付き・血統書付きの人間であれば(よって将来の出世・富裕化が極めて高く見込まれる人間であれば)、そんな人のパートナーになりたいと願うのは人として当然のことである。
 そんな判定ができるにも関わらず利用しないなんて、本当に考えられることだろうか。

 そう、こんな世の中になれば、未婚率の上昇と少子化の進展は今以上に進むに違いない。
 選別基準を満たす人間はごく少数なのはわかりきっているが、しかしそれでも多くの人はそのごく少数を望むのである。
(たとえ自分自身は、選別基準を満たしていなくても……)
 
 これはいったい人為淘汰なのか自然淘汰なのか、選択に困るところではある。
 しかし昆虫の世界でも「メスは大きなエサを持ってきたオスを交尾相手に選ぶ」といったことがポピュラーらしいから、やはり自然の営みの一環と言うべきだろう。
 どうやら素朴に愛・恋・出会いを求める人間にとっては、ますます困難かつ絶望的な時代になってきそうな雰囲気である。
(私はそういうタイプの人間でなくて、つくづく良かったと思う。)

 しかし、これも世の流れ。
 美人資本主義が“みんなの支持する性淘汰”なのと同じく、恋愛・結婚における選別主義もまた、“みんなの望む淘汰圧”である。
 企業が「いい人/優秀な人」を獲りたいと願うなら、それはAIを活用するだろう。
 だったら個人が恋人・配偶者を選ぶのにAIを使ったからとて、何の不思議も(禁止事由も?)ないと言うべきだ。
 百年後の日本が人口たった百万人で、しかもその全員が容姿抜群・健康そのもののエリート知能の持ち主だったとしても、驚くことは何もなかろう。

ソフトバンク、AI採用開始 その1 「これは体のいい学歴フィルター説」について

 5月29日、ソフトバンクは2018年4月からの新卒採用に当たり、「AI採用」を導入すると発表した。
 人工知能「Watson」(IBM製)をエントリーシート評価に用い、人間がそれを行う時間を75%削減した上で、その浮いた時間を応募者との対面コミュニケーションに当てるそうである。
 この一報をひねくれて解釈すると、「これは体のいい学歴フィルターではないか」との意見がすぐ思い浮かぶ。
 もちろん時間の削減にもなるだろうが、従来もやっていた学歴フィルター作業(学歴の低い人をふるい落とす)を自動化し、そんなおおっぴらに言えないことを「AIの判定」を拠り所に誤魔化そうといういうのだろう、という説である。

 さて、世の会社が採用活動するのに学歴フィルターを用いているというのは、まさに「公然の秘密」である。
 もちろんそれは、「本当はやってはならない悪いこと」という意味で言われることが多い。
 しかし果たして、学歴フィルターは悪いことなのだろうか?

 学歴の高い人間(「いい大学」を出た人間)は頭がいい、よって仕事もよりデキる。
 むろん全員が全員そうではないが、少なくとも学歴が低い人間がそうであるより(はるかに)その可能性が高い――

 これは間違った考えであり、事実に反することだろうか?
 実のところ世の中のほとんどの人は、この考えが正しいことをわかっていると思う。
 なるほど学歴ばかり高く(学歴しか高くなく)、その他の能力(特に、例の“コミュニケーション能力”)が低くて仕事ができない人は多くいるだろう。
 しかし、ではその割合と絶対数は「学歴が低くて仕事もできない人」より高く多いのかと言えば、そんなことはないとみんなわかっているのではないか?

 おそらくソフトバンクの使うAIには――
 『エントリーシートの書き方』といった本に書いてある例文が、ことごとくインプットされるだろう。
 そのまんま書き写したようなシート、つまり有意の一致が見られるシートはハネられるだろう。
 当然、日本語になってないような文章もまたハネられる。(こういう文章を書く人は多いのである。)
 そのあげく、「結果的に学歴フィルターの役を果たしてしまいました」(「いい大学」出の人ばかりシート審査を通過しました)という顛末を迎えるのは、非常にあり得ることと思われる。
 救いがないと言えば救いのない話であるが、しかしソフトバンクのこの一件、やはり学歴フィルター云々を超える重大な意味があると感じずにはいられない。
 以前の記事でも書いたことだが、ついに人類は「AI人事」の時代、「AIによる選別」の時代を迎えたのである。