プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「AI人事」の時代・適材適所の完成とネオ身分社会の到来 その2

 圧倒的多数の人は、人事や人生をAI判定に決められる世の中を、ディストピアユートピアの反対。悪夢郷)だと反射的に感じる。

 それは、自分のやりたいことと向いていることが食い違う場合を思うからである。

 そういうシチュエーションは漫画や映画や小説で腐るほど取り上げられており、主人公は決まって「機械に決められる人生なんてごめんだ」と叫ぶからである。

 しかし実際のところ我々は、「音楽の才能がないのに音楽をやりたい(メシのタネにしたい/仕事にしたい)」人について、どんな感情を抱いているか?

 気の毒だとか悲劇だとか切なくなるとかいうのはまだマシで、ほとんどの人は「バカだなぁ」と鼻で笑うのではないだろうか。  

 それが創作世界の中の人物でなく、自分の身近な実在の人物だとかバラエティ番組に取り上げられる実在の人物ならば、ほぼ確実にバカにするのではないだろうか。


 音楽の才能がないのに音楽の道に進むことは、本人にとっても社会にとってもプラスにならない。

 管理職になるべきでない者が管理職になることは、みんなを(本人だけは例外かもしれないにしても)不幸にする。

 どんなに少なく見積もっても、管理職適性のある人が管理職になった場合に比べ、他人に対し莫大な逸失利益を生じさせるに決まっている。

 してみるとやはり、AI人事やAI判定による人生進路の決定を行うべきだということになる。


 また、もし会社への就職時や社内人事のずっと前に――それこそ子ども時代からAI判定を受けさせるようにするならば、社会は(人類は)もっともっと巨大な利益を得ることになるだろう。

 その最大の効果は、「才能の取りこぼし」がなくなることである。

 これまでの歴史において、アインシュタインを凌ぐほど物理学への適性のあった人間が、ただの農民や行商人・遊牧民、あるいは原始人として何百人何千人も死んでいったことを私は疑うことができない。

 「野に遺賢あり」(「世の中には、まだ朝廷に用いられていない知られざる優秀な人材がいる」)という言葉があるが――

 野に遺賢なからしむることは、昔の中国の真面目な君主たちが必ず心がけるべきことだった。

 なるほど近代から現在に至る学校制度・義務教育制度の確立は、何かに適性のある優秀な人材を社会が取りこぼしてしまうことを、相当程度防ぐ効果があったはずだ。

 いくら「天才たちは学校の授業になじめなかった」とかいう偉人エピソードを聞かされたところで、もし学校がなかったら、その偉人たちは自分が何に向いているのかすら気づくことなく一生を終えた可能性が多分にある。

(だいたい近代以降の天才たちというのは、結局はレベルの高い名門大学に入学しているものである。)


 しかし反面、義務教育制度には欠点もある。

 それはむろん、元から勉強に向いてない人間や勉強に関心がない人間にまで、無駄な教育を強要している――

 納税者の資金をはじめとする社会的資源を、無駄に投入し消費しているという否定しようのない事実である。

 もしAI判定にそんなことができるものなら(いつか近いうち可能になるはずだが)、人生の早期から「勉強自体への向き不向き」「特定科目への向き不向き」を判定させておくべきだろう。

 そうすれば勉強に不向きな人は無駄な苦労・苦役をせずに済み、社会は(つまり他人は)無駄で非効率な資源投入をせずに済む。  

 一方、特定科目にずば抜けて適性があるならば、それを集中的に学ばせればよい。(やっている本人もきっと楽しいだろう。)

 そしてこの時点で万人に、いったい彼・彼女にはどんな職業が向いているものか――どこまでの地位が適当なのか判定してあげるのも、立派な公共サービスというものではあるまいか。

 

 AI判定により、たぶんほとんどの人間は、「あるべき場所にある」ことができる。

 あたらマネージャーの才能のある人間を、長期にわたり下働きさせておくという無駄もなくなる。

 そしてまた、「世襲」という社会的悪癖もなくせる可能性が充分にある。

 当たり前のことではあるが、政治家の子が政治家に向いているとは限らず、経営者の子が経営者に向いているとは限らない。

 いつか必ず、親の地位に向いていない子しか残らないような時が来る。

 その子らが親の地位を継承することは、前回記事で述べたように、市場の圧力や社会的雰囲気により極めて難しいものになるはずだ。


 いわば社会全体・国民全員が「適材適所」を実現することになるのだから、こんな社会が発展しないはずはないと思われる。

 日本は少子化を補ってあまりある活力を手に入れ、国富が倍増・三倍増したって驚くには当たらない。


 しかしやっぱり、問題はある。

 それは、「たいしたことない才能・適性」しか持たないと判定された、おびただしい人間たちの――

 小は企業の中間管理職から大は歴史的英雄・世界的大富豪に至るまで、自分のなりたいものになれないと「客観的に・確実的に・公平に」判定された人間たちの絶望感と虚無感を、どうすればいいのかという問題である。

(もちろんAI様の判定は、まず間違いなく生身の人間の判定より確実である。

 同時に、生身の人間よりずっと公平で私心のない――従って信頼できる判定だ、と万人に思われることだろう。

 その判定に拒否反応を示す人すら、心の底ではその判定が正しいと感じざるを得なくなる。

 これを否定するのは、ビッグデータによる結論を受け入れないよりもっと愚かしい真似になるだろう。)