プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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はぁちゅう氏もまた童貞イジリで謝罪-「士農工商エタ非人」の構造は永遠に?

 先日の記事の続きである。

(⇒ 2017年12月18日記事:はぁちゅう氏の電通クリエイターセクハラ告発事件-なぜ

tairanaritoshi-2.hatenablog.com


 著名(らしい)クリエイター・岸 勇希 氏のセクハラ・パワハラを告発して社会的制裁を受けさせたブロガーの「はぁちゅう」氏だが――

 彼女もまた過去に“童貞”(セックスしたことがない男性)をからかった発言(書き込み)をしており、このたびそれを謝罪したらしい。

news.livedoor.com


 私は彼女がこんな発言をしていたとは、とんと知らなかったのだが……

(彼女のブログもツイッターも本も全く読んだことがないからだ。)

 上記引用記事中にもあるように、まこと差別者は自分が差別という悪いことをしているなどとは思わないものである。


「童貞的思考が大好きすぎて、こんなにも言われて嫌だと思う人がいると全く思わなかったのですが」

とか、

「童貞をブランディング(自分をアピールする手段)に利用している友人などが多かったため、童貞という言葉を差別意識なく使っていましたが」

とか、

 「童貞」を「ブス」と言い換えればさぞかし叩かれまくることだろう。


 この件は本当に、社会の縮図だと思うのだが――

 岸氏にセクハラ・パワハラを受けていたはぁちゅう氏もまた、「自分より下の」童貞男性を小馬鹿にしていたことになる。

 言うまでもなくこういう構造は、社会に普通に見られるものだ。 

 「上の人間」に怒鳴られて搾られて傷ついている人間が、いざ「下の人間」を相手にすると自分がやられたのと似たり寄ったりのことをやる――

 これは世間にありふれたことで、人間社会の陰惨な「常態」である。


 こういう話を聞けば、日本人なら“あの”言葉ないしシステムを思い起こさずにいられないだろう。

 そう、歴史用語の中でも屈指の知名度と(今でもしばしば使われる)汎用性を持つ、士農工商・エタ非人」というやつである。

 一般にこのシステムは、封建時代の支配者が「農民や商人よりもさらに下」の身分を作り出すことで、農民らの不満をガス抜きしたり封建制の支持者にしようともくろんだ下劣な策略とされている。

 しかし、この仕組みを学校かどこかで初めて知った人――つまり日本人のほぼ全員――は、ある一つの感想を抱いたのではないかと思われる。

 それは、「うむ、確かに、よく出来た上手いやり方だ」という感想である。


 士農工商エタ非人という構造(システム)は、人間心理を非常によく押さえている。

 それはほとんど、人の心にジャストフィットしていると言っていいほどである。

 人間は、とにもかくにも「自分が一番下」とは思いたくない。自分より下の存在がいてほしい・いるべきだと思う。

 人間は、どうでもこうでもどこかの他人より「上」でありたいと思うもの……

 もちろんそんな自分の気持ちが「悪い」とは思いたくないので、それは自然で当然の“決まり事”なのだと無意識にでも思いたくなるだろう。

 岸氏もはあちゅう氏も謝罪しはしたが、しかし心底から自分のやったことや言ったことが悪いとは思ってはいまい。

 きっとその謝罪が、やむを得ない/不本意な/腹立たしいものであるだろうことは、およそ人間であるならば誰にでもわかることだ。

 
 「自分が一番“上”でないのはわかっているが、他の誰かより“上”でありたい」というのは、人間の願いと言うより本能と言った方が正確に近いだろう。

 よって、「士農工商エタ非人」システムは、これから先も(日本人の意識の中で)日本社会に延々と続いていくと思われる。

 「上」の誰かにバカにされて傷つく人は、他の誰か(「下」の誰か)をバカにして傷つける――

 こういう気の滅入るような連鎖を、人間はずっと未来まで続けていくのだろう。


 しかし、そういうのが本能だからって、「正しい」わけではないのは言うまでもない。

 自然界に善悪の区別なんてあるわけがなく、本能はただの本能である。

 ここ数日の本ブログ記事では、同じようなことを書いているのでやや気が引けるが――

 人間に「上」や「下」の区別はない。

 これは絶対の真実であって、人間は誰しもただの人間である。

 「特別な人」など誰もおらず、誰もが一般人なのだ。

 

 岸勇希氏は、広告を作るのが上手い一般人である。

 はぁちゅう氏は、ブログを書くのが上手い(自分のブランディングが上手い)一般人である。

 アレクサンドロス大王は、戦争が非常に上手い一般人である。

 ヒトラーは、演説がとても上手い一般人である。

 モーツァルトは、素晴らしい音楽の才能を持った一般人である。

 ビル・ゲイツは、ものすごい商才を持った一般人である。   

 ウォーレン・バフェットジョージ・ソロスなどは、投資が超得意な一般人である。


 彼らはたまたま、そういう才能を持って生まれてきた一般人ばかりである。 

 あなたはきっと、「フェラーリを持っているからオレは他の連中より上だ」なんて思う人間に対し、「なんだコイツ」と思うだろう。

 そしてまた、「フェラーリを持っているからその人を尊敬すべきだ」なんて言われたら、バカかお前はと返すだろう。

 いわゆる名家に生まれた人間を、あなたはだからと言って尊敬しないだろう。

 彼らが名門の家に生まれたのは、ただの偶然だからである。

 だったら、たまたま何かの才能を持って生まれてきた人を「上」だと思うのは自己矛盾である。

 たまたま何かの才能を持って生まれたからって、そうでない人より「上」だと思うのは完全な間違いである。

 この理屈を否定するには、「才能を持って生まれてきたのは偶然でなく理由がある」としなければならない。

 そしてそれは、前世の行いがどうとかいう、土人宗教のオカルト世界に足を踏み入れることである。


 どうでもこうでも人間には「上」と「下」がある、あると思いたい、あるべきだ――

 そういう封建時代の土人心(どじんごころ)を人間が捨てたとき、ようやく士農工商エタ非人制は終わりを告げる。

 私が『尊敬なき社会』を目指すべきだと思うゆえんである。