このブログでは、歴史のことも書くことにしていたのだった。
9月12日の産経新聞は、本能寺の変(1582年6月2日=日付は旧暦。以下同じ。)で主君・織田信長を討った明智光秀が、その10日後の6月12日に書いた手紙の原本が発見されたと報じている。
宛先は紀伊の雑賀衆にして反信長派のリーダー・土橋重治(つちばし しげはる)で、その内容は味方の情勢を伝えるとともに、「詳細は上意(足利義昭)からご命じになられるとのことです。(私からは)申し上げられません」「将軍(足利義昭)のご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です」などとしているものである。
ところでこの“新史料”だが、「えっ、これって前から知られてたじゃん」と思った人は多かったろう。(私もそうだった。)
だってこれ、まさに発見者の藤田達生教授(三重大学)の著書『謎とき本能寺の変』(講談社現代新書)で何年も前に紹介されていたのである。
(そしてもちろんと言うべきか藤田教授は、以前からこの史料などを基に「本能寺の変、足利義昭黒幕説」を唱えていた。)
しかし記事をよく読んでみると、「今まで“写し”は東京大学史料編纂所にあると知られていたが、“原本”が確認されたのは今回が初めて」ということがわかる。
そしてこの“原本”は、旧家の伝存物などから発見されたのではなく、岐阜県美濃加茂市の美濃加茂市民ミュージアムに前から所蔵されてあったこともわかる。
「博物館に前からあったが、調べてみて初めて新発見のブツだったとわかる」というのは、古生物学の世界でも非常によくあることらしい。
これからも同じような「新発見」が全国各地であるだろうし、それを期待したいものである。
さて、この原本新発見の史料(書状)だが――
これをもって
「二人の間には信長殺害について事前に相談があった」
「光秀は義昭の指令を受けて本能寺の変を起こした」
とするのは、やはり無理筋だと思う。
この手紙が書かれたのは6月12日――まさに山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に大敗する前日のこと。
もちろん光秀は既に秀吉が迫っていることを知っており、迎撃のために京都から出てその西南の(京都への関門とも言える)山崎に陣を張った。
そしてまた、細川藤孝・筒井順慶などという(自分の組下大名で、当然自分の味方に付くと思っていたとされる)連中が、味方しに来ないこともとうにわかっていた。
こういう状況で光秀が一縷の望みをかけられるのは、まったくもって足利義昭しかいない。
たとえ信長を殺したのが私やあなたであったとしても、やはりこういう状況にあれば義昭の名を出すしかないはずである。
そう、誰だって信長を殺した後に状況が悪くなったなら、義昭を推戴するしか手はないのだ。
私は、光秀が本能寺の変を起こす前から(いまだ現任の征夷大将軍である)義昭と連携することを考えていたというのは、大いにあり得ることだと思う。
いや、そうあって当然である。
そして光秀が本能寺の変成功直後に毛利家へ急使を走らせたように(秀吉軍に捕まってしまったが……)、鞆(広島県福山市)に座する義昭の元へ、別の急使を走らせたのも確実に想像できる。
しかしこれはもちろん、本能寺の変について義昭と光秀が連携していたとか、義昭が光秀に命じてやらせたとかいう話に直結するものではない。
それは光秀が義昭の名を持ち出そう、あわよくば連携しようと事前に考えていたというだけの一方的な話で、当時としてはごく“常識的な”考えである。
確かに、「本能寺の変には光秀以外の黒幕がいた」というのは、考察にも値しないバカげた説というわけではない。
“事前に連携なんてできるわけない。
それが信長にバレたらどうするのか、
事前にそんな話を持ちかければ情報が漏れるに決まってるだろう、
光秀ならずともそんな危険な真似をするわけがない。”
との主張にも一理あるが――
だったら古今東西の謀反・反乱・クーデターというのは、全て協力者なしに一人で・一勢力でやりきったものなのか、という話になってしまう。
(もちろん、そんなわけがないのだ。)
とはいえ、もし義昭と光秀に事前に連携があったなら、ましてや義昭の指令で光秀が動いたのなら――
必ずや義昭は火が付いたように毛利やその他の戦国大名に督励の手紙を書きまくったに違いない。
我々は備中高松(岡山県)の秀吉の陣で、毛利軍の陣営に行こうとした光秀の急使が捕らえられた(らしい)ことを知っている。
しかし、義昭の元へ走った急使が途中で捕まったという話はついぞ聞かない。
だったら間違いなくその急使は、(毛利への急使が捕まった数日後以内には)鞆の義昭に本能寺の変の成功を告げたのである。
いや、もしそんなことがなく――つまり義昭の下へ光秀が急使を送っていなかったとしたら、もう何をかいわんやだ。
管見の限り、義昭が全国諸大名に「光秀に協力して自分の帰洛に与同せよ」と命じた手紙は、ないようである。
(本当に義昭が光秀に命じてやらせたのなら、予めそういう手紙を書きためておいたこともありえないことではない。)
「それは確かにあったのだが、光秀滅亡後は持っていたら都合が悪いので全て燃やされたのだ」とするのは、またしても何をかいわんやである。
それにしても本能寺の変は、日本史上に輝く謎の人気ナンバーワンである。
これに匹敵できるのは、邪馬台国論争くらいしかない。
これからもその真相については何百冊も本が書かれるに違いないし、決着が付くのはタイムトラベルやタイムリサーチ(過去の世界に、物質を通り抜けられ浮遊して移動できる監視カメラを送り込む)が実用化されてからになるだろう。
(そんなことができるようになったとすれば、明智光秀と三世紀の近畿または九州が第一候補になるのは間違いない。)
しかしやはり今のところ、明智光秀の「単独犯」説が、最も可能性が高いように思えるのだが……