故ジャニー喜多川による同性未成年者(児童)姦問題は、ついにジャニーズ事務所の現社長が動画謝罪し、国会にも持ち込まれるような話になった。
今までこの問題を完全スルーしていた大手メディアも、「やむなく」から「手のひら返し」まで温度差はあるが、とうとうこれを報じざるを得なくなってきた。
これはひとえに、外国メディア(特にBBC)の「忖度なし」の外圧のおかげである。
昔から日本は「女ならでは夜の明けぬ国」などと言われてきたが、本当は「外圧なしでは夜の明けぬ国」だろう。
それはともかくこの同性への性加害(児童姦)は、アイドル志望者だけでなく「付き人希望のスタッフ」にまで及んでいたらしい。
また、(実に50年以上の期間にわたる)被害者数は、2500人から数千人にも及ぶ可能性があるとのこと。
もしそれが話半分いや10分の1であっても、日本史上空前の性犯罪の被害者数である。
いや、それが同性を対象とするものである点では、世界史上空前絶後の「同性相手の性犯罪事件」ではなかろうか。
かつての大帝国の暴君、暗君、淫奔極まる種馬のごとき性豪君主たちですら、こんなことはなし得なかったに違いない。
(⇒ 文春オンライン 2023年5月17日記事:被害男性告白「クリームをお尻のほうに塗ってきて…」ジャニー喜多川氏はスタッフも襲っていた)
(⇒ 日刊ゲンダイDIGITAL 2023年5月17日記事:ジャニー喜多川氏の性加害問題…30年以上告発してきた元Jr.が推測した衝撃の被害者数)
さて、しかし――
この問題について「勇気ある」告発・告白をした人たちの話の中で、聞く人がみんな「なぜだ」と思いたくなることがある。
それは、彼らが判で押したように
「しかし故ジャニー喜多川には感謝している。あの人は素晴らしい人」
などと必ず言い添えていることである。
上記引用記事の元スタッフもまた、「あれさえなければジャニーさんは素晴らしい人」と言っている。
「あの野郎」呼ばわりする人は、一人もいないのだ。
思うに、ここまでみんな一致して故ジャニー喜多川を「素晴らしい人」と言っているのは、それが事実だからだろう。
本当にジャニー喜多川は素晴らしい人で、感謝を捧げずにいられない人――と、性的被害者さえもが感じずにいられなかった人――だったのだろう。
こういうことは、あり得る。
思うに、故ジャニー喜多川の「同性の未成年」に対する嗜好と性癖は、筋金入りのものである。
ロリコンが根っから幼女が好きでたまらないように、故ジャニー喜多川も同性未成年が好きでたまらなかった。
これは生まれつきの、骨絡みのものであって、治癒することはまずできない。
いや、今の時代、本当はこれを「治癒」などとは言ってはいけないはずなのだ。
しかし根っからのロリコンが、児童ポルノ愛好者が、社会生活では「素晴らしい人」「感謝を捧げて当然の善行者」であることはあり得る。
そこが人間の面白いところ――と言って悪ければ興味津津たるところであって、本来これは文学の真の領域でさえあるだろう。
そしてまた思えば、日本は昔から「衆道の国」であった。
同性愛の中でも男同士の愛、中でも「少年愛」が広く受容されていた――ウケていた――国であったことは、もう常識と言ってもいいだろう。
それは現代では「青年愛」にも広がっていることは、いわゆる腐女子の愛好するボーイズラブ(BL)ジャンルが、かくも繫栄していることに示されている。
かつて日本の僧侶は、稚児という少年を寺に住まわせて性愛の対象にするのが普通だったとされる。
これは現代では、(艶笑譚と感じられるのも確かだが)基本的には許しがたい異常なことと見なされる。
そんな僧侶を「素晴らしい人」「敬意を払うべき人」だと思う人は、まずいないだろう。
しかしかつては、そんな僧侶らが確かに敬意を払われていたのだ。
今回の事件は、ジャニーズ事務所という巨大寺院の開祖であり大僧正である故ジャニー喜多川が、将来のスター僧侶・寺院雑掌である稚児たちを集めてきた――
という日本史的な解釈が、非常によく当てはまるように思う。
それはある意味、「衆道の国」たる日本でこそ起こった事件であり……
日本の長い長い衆道の伝統があったからこそ起こった事件、と言えると思う。
たぶんこれほどの規模と期間にわたる同性への性加害事件は、日本以外では起きる文化的地盤がないのだろう。
そしてかつての寺院の稚児たちの大半は、自分を性的に抱く大僧正らに、おそらくは感謝と尊敬の念を持っていた。
おそらくは、恨みを抱く者は少数だった。
だから現代のジャニーズ出身者らが、告発・告白こそすれ故ジャニー喜多川に感謝や「素晴らしい人」という賛辞を付け加えるのも、それほど奇異なことではないのかもしれない。
もちろん、故ジャニー喜多川に接したことのない大半の人には、それは奇異以外の何ものでもないのだが……