5月17日、政府法制審議会(戸籍法部会)は、戸籍に読み仮名を記載する法改正の中間試案をまとめた。
そしていわゆる(漢字と読み方が普通は一致しない)「キラキラネーム」をどの範囲で認めるか、3つの案を併記した。
しかしおそらく、「光宙」と書いて「ぴかちゅう」と読むことも、「海」と書いて「まりん」と読むことも公認されそうな雰囲気である。
(⇒ 時事ドットコム 2022年5月17日記事:キラキラネーム許容で3案 読み仮名の戸籍記載―法制審)
これについて私は、「それでいいんじゃないの」と思う方だ。
根本的に、他人の親が子どもに名前をどう付けようと、他人の知ったことではないのではなかろうか。
それで子どもが困るとかいうのは、それこそ世にいう自己責任の範疇ではなかろうか。
またこれには確かに、「ヘンな奴」シグナルとして役に立つという側面もある。
もちろん子ども自身がヘンな奴だという意味ではなく、その親がヘンな奴ではないかという警報として役に立ちそうだ……
というのは、誰でも思うことではないか?
ハッキリ言えば、その親は何かといえば怒鳴り込んでくる親ではないか、と身構えることができるだろう。
これが「普通の名前」の子どもであれば、その親がヘンな奴かどうかは接してみないとわからないものだ。
しかしそれより私が意義深いと思うのは、このキラキラネームが公認されようとしている現代は、日本が迎えた日本人の名前の大転換期に当たっている、ということである。
日本人女性の名前で「とめ」だの「なべ」だの「いぬ」だのが普通だったのは、つまり何もおかしなことはなかったのは、そんなに昔のことではない。
しかもそういう時代は、何百年も続いていた。
今から見れば、それら女性名は全くトンデモネームとしか感じようがない。
もっと遡れば、神武天皇の曽祖父の名は「アマツヒコ ヒコホノ ニニギノミコト」と言った。
これら神代の異常な長さの名に比べれば、ピカチュウもマリンも可愛いものだと言わざるを得ない。
いくら神代の時代を憧憬する現代日本人といえど、まさか自分の子どもの名前にこんな長い名を付けようとはしまい。
それは現代ではトンデモネームと感じられるのであって、これが時代の移り変わりというものである。
我々はすでにもう、フィギュアスケートの田中「刑事」や俳優の新田真剣佑(あらた まっけんゆう)なんて名を、トンデモネームとは思っていないではないか?
ここから「光宙=ぴかちゅう」や「海=まりん」を容認するのは、ほんの一歩のところである。
いや、「海=まりん」はもう容認されていると言っておかしくないのではないか?
英語圏の名前をそのまま、あるいはちょっとアレンジして日本人女子に付けるというのは、もう普通のことではないか?
(まあ、ぴかちゅうはあと二・三歩くらい必要だろうが……)
いずれにしても、日本人の名前が「今のまま」ずっと続くことはありえない。
それはもう、歴史が文句なく証明している。
今から二十年後の日本の女性首相の名前が「海=まりん」だとして、いったい何の不思議があるだろうか。
私が望むのはただ一つ、「公文書を含め、全ての文書の個人名にはフリガナを付けよ」ということである。
戦前の本なんか、本当に全ての漢字にルビを振っているのが珍しくなかったのだから……