さて、この事件を起こした少年の犯行動機は、「東大に行って医者になる」ことができない(だろう)ことへの挫折感と敗北感と思われる。
ここで誰しも不思議に思うのは、医者になるには別に東大卒じゃなくてもいいことである。
どこの大学だろうが医学部を出れば医者になれるし、患者の方は特に医者の卒業大学がどこかなんて詮索しようとはしない。
しかし彼にとって重要極まるのは、「東大を出て」医者になることであった。
彼が捕まったとき叫んだのは、「来年、東大を受ける!」という狂気じみた言葉であった。
だがこれ、無理からぬ心境だとは思われまいか。
なぜなら今の世の中は、「東大一人勝ち」だからである。
「東大にあらずんば大学にあらず」とさえ言える雰囲気だからである。
書店でもネットでも、
「東大生の教える**」
「東大卒**の教える**」
「わが子を東大に入れるには」
「東大生の**術」
「東大脳の作り方」
みたいなタイトルが腐るほど氾濫しているのを、皆さんはご存じのはずである。
かつて「もはや学歴社会ではない」と言われた時代があったが、その予測は大外れであった。
ビジネス界が「勝者総取り」になるのと歩調を合わせ、大学界は「東大一人勝ち」の色がますます鮮明になった。
そう、東大以外――
京大・阪大・慶応大・早稲田大などなどの現役学生や卒業生は、自分がどう思われているか(あるいは自分自身が苦々しくもどう思っているか)、よく知っているはずだ。
それは「エラいのはエラいけど、東大に行くほどじゃなかった」
という評価である。
そして日本は――日本人の意識は――、脱学歴社会どころか、東大を唯一別格の「真の大学」とする学歴カースト制度を採用するに至った。
それはまるで、中世の中国を思わせる科挙社会である。
実際、調べてみれば、科挙に挫折した人間が発狂したり殺人を犯したりすることって、かつて中国でよくあったことではあるまいか。
そして太平天国の乱は、何百万人もの死者を出した。)
なんだか現代日本は、昔の中国のような社会に「民衆が進んで」戻ろうとしているかのようにも見える。
そんな科挙社会において科挙挫折者が「乱」を起こすのは、極めて当たり前のことと言える。
(続く)