プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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テラハ打ち切り-量子力学と「リアリティ-番組がリアルなわけがない」

 5月27日、フジテレビは、木村花事件が起きてしまった恋愛リアリティー番組「テラスハウス」の打ち切りを発表した。

 それはそうである。

 ところで私はこの「恋愛リアリティー番組」というものに全く興味がないし、見たこともない。

 木村花のことは知っていたが、彼女がテラスハウスという番組に出ていたことは知らなかったし、

 そもそもテラスハウスという番組があること自体を、こんな事件が起きるまで知らなかった。

(たぶん私は、世間知らずの部類に入るのだろう。)


 しかし、そんな私にも確信を持って言えることがある。

 それはテラスハウスに限らず、リアリティ-番組を名乗る番組が真にリアルであるわけがない、ということである。

 私はテラスハウスという番組を一話たりとも見ずにこの記事を書くので、事実誤認もあるかもしれないが――

 リアリティ-番組がリアルなわけがないと思う理由を、以下述べてみよう。


 まず今回、木村花が自らの命を絶ったのは「自宅マンション」であった。

 この時点でもう、おかしくないか。

 テラスハウスという番組は、「テラスハウスという場所で男女が共同生活している」ことが大前提ではないのだろうか。

 木村花は、テラスハウスにいなけりゃおかしいのではないか。

 思うにテラスハウスとは、一般人で言う「職場」のことであったのだろう。

 そう、テラスハウスの出演者らは、自宅からテラスハウスに「通勤」していたというのが本当ではないか。

 そうなるとテラスハウスの言う「リアル」とは、生活のリアルでなく職場のリアルだということになる。

 それがどういう職場かというと、「テレビ番組の撮影」という職場なのだ。

 そういう職場での仕事とは、言うまでもなく「演技すること」に決まっている。


 なお、木村花への罵詈雑言・誹謗中傷が激化したのは、38話で「命の次に大切な彼女のプロレスコスチュームを、勝手に洗濯されて激怒した」ことがきっかけだそうだ。

 番組を見ていない私には、なんでそんなのをわざわざ「テレビ撮影の場所」に持ち込むのか、不自然に感じる。

 木村花には自宅マンションがあり、実際はそこに住んでいたのだろうから、別にそんなの「共同生活の場」に持ってくる必然性はないはずだ。


 ついでに言えば、もし世の中が思いもよらぬコロナ禍に見舞われていなければ――

 木村花の所属するスターダムは、月に一度の後楽園ホール大会の他に、地方巡業などもこなしていたはずである。

 それでも彼女は本当に、試合のオフ日は「テラスハウスで共同生活」していただろうか。
 
 夜はそこに戻って寝ていただろうか。

 私には到底そうは思えないのだが、番組を見ていた人は、どう思われるだろうか。


 そして、何よりも根本的に思うのは――

 「テレビカメラに撮られ、それがネットと地上波で放送されるとわかっていて、どうしてリアルに振る舞えるものか」

 という疑問である。

 たとえば「仕事のリアル」という番組があったとして、今回はあなたが撮影対象だとする。

 あなたの職場にテレビカメラが入り、あなたの仕事ぶりを撮影する。

 それであなたは、本当に「普段どおりの素の仕事ぶり」を見せるものだろうか。

 私は断言するが、絶対にそんなことはないはずである。

 もし「いや、自分は違う。いつもどおりの姿を見せる」とあなたが言うなら、きっとあなたは臆面もないウソツキであろう。


 これはちょうど、量子力学の話に似ている。

 もちろん私は量子力学に詳しいわけでも何でもないが――

「観察者がいること自体が、観察対象に影響を与える」

「観察対象に影響を与えずして観察することは、そもそもできない」

 ということくらいは、聞きかじっている。


 量子力学を理解していると言える人は、実はこの世にゼロ人かもしれないが、

「テレビに撮られ、放送されるとわかっていて、素の姿のまま振る舞うことはできない」

 くらいのことは、誰だって理解できそうである。


 本当に人間のリアルな姿を撮りたければ・見たければ、それはもう「隠し撮り」するしかない。

 しかしもちろんテラスハウスも他のリアリティー番組も、隠し撮りしているわけではない。
 
 そしてまた、本当にリアルな人間とリアルな生活とは、言うまでもなく「退屈で平板」なものである。

 仮にジャック・ライアンみたいな映画ヒーローが実在したとして、その人生の時間の99%くらいはたいして何事もない普通の日々であることは、誰にだって想像できる。

 私が考えるテラスハウスの真のリアルとは、入居者みんながヒマさえあればスマホをいじっている映像である。

 互いに会話することさえ、そんなにはないだろう光景である。

 しかし当然ながら、そんなもの放送したって視聴率がとれるわけがない。

 だから出演者と番組制作者には、控えめに言っても、積極的に出演者の行動・言動を脚色する動機がある。

 それが真にリアルな彼・彼女の姿だと思えるのは、

 テレビ局が「台本なし」と言ってるんだから本当にそうなんだろうと思うのは、

 よほど純情無垢な人間のみだろう。

 むろんこの場合の純情無垢とは、良い意味でなくバカにした意味である。

 世間では通常それを、「お花畑」脳と呼ぶ。


 なお私は、テレビ局が「台本なし」と謳っていることについては、ウソではないかもしれないとは思っている。

 その心は、「台本と名付けられた冊子状の台本はない」というのは本当かもしれない、という意味である。

 もし今回の件でフジテレビが裁判の被告になったとしたら、被告側弁護士は本当にそう主張するのではあるまいか。

 だが、仮に「冊子の台本」がないのは真実であってウソではないとしても――

 口答指示まで一切なく、本当に出演者を「放し飼い」状態にして撮影していただけ、などということを信じる人がいるだろうか。

 
 リアリティ-番組が、真にリアルであるわけがない。

 観察者どころか撮影者がおり視聴者がいるのだから、それは確実に断言できる。

 真のリアルは「たいして面白くない」、脚色しなけりゃ放送できる代物にはならない、のだからなおさらである。

 しかし、それでもリアリティ-番組には需要がある(だから似たようなのが作られている)ようなので――

 現代はたぶん、「リアルっぽいのがブームの時代」なのだろう。

 そしてまたそういうブームは、衰えてはまた現れることを繰り返すのだろう。