12月6日、最高裁大法廷は「テレビを持っていれば、NHKを見ていなくてもNHK受信料の支払い義務がある」とする放送法第64条を合憲であると判決した。
「この規定は、国民の知る権利を確保するための立法の裁量範囲内の規定だから」という理由である。
この裁判、確かに注目されてはいたが――
この判決、予想どおりと感じた人が大多数だったのではないか。
だいたい、最高裁が「NHK受信料の強制徴収は違憲」と判決するわけがないのである。
そんなことしたら、それこそ甚大な社会的影響をもたらしてしまうからである。
この判決に限った話ではないが、裁判そして法律というのは――
根本的に、あらかじめ「結論ありき」の産物である。
特に民法の本を読めばすぐわかることだが、たとえば「不法行為」の論理構成というのは、
もう始めから
「被害者を救済せねばならない。
よって、被告の会社に法的責任=賠償金支払義務を負わせなければならない。
そのためにはどういう理屈づけをすればいいか」
という流れ以外の何ものでもない。
今回のNHK受信料の件にしたって、最高裁判事の頭の中には始めから
「これを違憲にしちゃマズいだろう。
違憲にしないためにはどういう論理構成をすればいいか」
という“お題”があり、それを基に自分で考え、他の判事と話をしたに決まっているのである。
そして注目の裁判となればいつもそうだが――
人は自分に都合のいい(自分の思想に合う)判決が出れば「司法の判断を尊重しろ!」と感じ、
都合が悪い(気に入らない)判決が出れば「日本の司法はおかしい!」と感じるものだ。
それは当然の人情である。
しかしやっぱり、理系の人から見ればこんなのは軽蔑に値する世界には違いない。
最高裁はもちろん一国の司法の最高権威機関だし、
法律学と言えば文系科目の中でも最高クラスの学問だと世間ではイメージされている。
裁判官・弁護士と言えば、文系エリートの頂点あるいは雲の上の職業だと思われている。
だがその彼らがやっていることは、基本的に“結論ありき”の学問なのだ。
“結論ありき”と言えば世間一般でも、悪いこと/デタラメなこと/必要悪みたいなこと、の代名詞のように使われている。
たぶんあなた自身も職場とかで、“結論ありき”の上層部の方針を理屈づけるために、さんざん苦労して資料とかを作ったことがあるはずである。
そしてそれは、やっぱり間違っている(けども仕方ない)と感じたはずである。
私はまるきり文系の人間なのだが、しかし「科学」や「理系の人」が、こういう“結論ありき”の人々や学問自体を見下す気持ちはよくわかる。
こういうのはバカバカしいか?
確かにバカバカしい。
しかし世界が理系と文系の二つでできているのなら、世界の半分は(いや、半分以上は)そのバカバカしさでできているのだろう……