プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「反五輪デモ・暴動」は起こるか?-選手ワクチン優先接種と医療者1万人確保

 IOC(世界オリンピック委員会)やフランスの委員会では、東京五輪に向けて「出場選手が優先的にワクチン接種する」ことが言われているそうである。

 (しかしWHOは、これに否定的)

 そして日本では、やはり東京五輪に向けて「1万人程度の医療者にスタッフになることを依頼する計画」があるらしい。

 なんかもう、よくやるよなぁ……
 
 と、普通の国民(というか、全世界の国民)は思うのではないか。

 まず「選手への優先接種」であるが、こんなことが実施されたら世界人民はオリンピックに背を向けるだろう。

 オリンピック選手というのは特権階級と見なされ、オリンピックは「特権階級の祭典」となるだろう。

 だからこれ、他ならぬ選手の方から辞退・反対の声が上がって実現されないと思われる。


 次に日本の「医療スタッフ1万人確保」であるが、間違いなく日本国民の圧倒的大多数は「寝ぼけたこと言ってんじゃないよ」と思うはずだ。

 いったいこの状況下で、そんなこと絶対してくれるなと感じるのがまともな人間というものである。

 
 このコロナ禍で、まるでオリンピックは「国民の敵」「人類の敵」になったかのようだ。

 人類の反五輪感情は、五輪史上最高に高まっている。

 むろん「密」は避けなければならないし、もともと日本人はそんなガラじゃないので、「反五輪デモ」「反五輪暴動」などは起こらないだろう。

 しかしこれがアメリカやフランスで開催ということだったら、間違いなく起こっていたと思う。

 そしていかに日本人といえども、「ネット上でのデモ・暴動」は起こしそうではある。

 また、仮に少人数でのデモ行進が行われたとすれば、それはかつてないほどの路上の声援を受けるんじゃないかとも思う。

 誰でも思っていると思うが、あえて言うと……

 菅政権は、たぶん五輪のせいで倒壊する。

 そう、コロナのせいというより、オリンピックのせいでである。

 
 たぶん今、日本人の大多数は、もう二度とオリンピックが日本に来なくていいから、東京五輪は中止すべきだと思っている。

 そう思っていないのは、ごくごく一握りの人たちだけである。

 おそらく菅首相自身も、中止すべきだと思っているがそうは言えない状況下にあるのだろう。

 だが、そうであっても、菅政権は2021年を乗り切れないことになるだろう。

 

イオン完全禁煙と「タバコのない世界」の文化損失

 ショッピングセンターの雄・イオンは、この3月までに国内115社の全事業所・グループ従業員約45万人を対象に「就業時間内禁煙」「敷地内禁煙」を開始すると発表した。

(⇒ Impress watch 2021年1月25日記事:イオン、就業時間内・敷地内禁煙。国内115社全事業所で)
 
 この「民間企業の自主的な禁止」というもの、今の日本社会について非常に多くのことを示唆していると思う。

 まず今の日本人は、国が国民に禁止していないことを民間企業がその従業員に禁止することを、当然または特に問題ないことと受け入れていることである。

 いや、どうかすると、「よくやった」「踏み込んだ対応」「国はやっぱり動きがノロい、それに比べて民間は進んでる」と好意的に評価しさえする、ということである。

 端的に言って、今の日本人は(もちろん全員ではないが)―― 

 平安時代の「荘園」や、室町時代から江戸時代あたりの「封建領国」に、好意的なのではなかろうか。

 国が禁止してないことを民間団体がその所属者に禁止する、というのは、かなりの程度まで憲法問題である。

 それこそ「ナチス台頭の足音が聞こえる」と言われてもおかしくはない案件である。

 日本人は根っから中央集権が好きだ、だから地方分権がいつまで経ってもできないんだ、とはよく言われるが――

 しかしその反面、日本人は根っから「国がやってないことを民間がやる」というのも好きである。

 そして、その「やる」というものの中身は、かなり高い確率で「**を禁止する」ということである。

 つい先頃まで日本企業では「副業禁止」がスタンダードであったが、これもまた国が禁止してないのに民間が自主的に禁止していたことだ。

 しかしこれ、「オマエの収入源はオレのとこ一本に限れ」という、労働者の生存権を脅かしかねない決まりであるにもかかわらず、別にたいして生存権の問題にはなっていなかった。

 たぶん日本人は、いろんな意味で根っから「封建社会」が好きなのだろう。

tairanaritoshi-2.hatenablog.com

 

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 さて、それはともかくとして、タバコである。

 いまやタバコは「いくら攻撃しても構わないサンドバック」となっており――

 その「害」は夥しく数え切れないほど列挙され続けているが、その「効用」を公に語ることは、ほとんど反道徳的な行為となっている。 

 しかし思うに、「タバコによる経済損失・健康損失」があるのなら、それが年間何百億円だという試算があるのなら、

 逆に「タバコによる効用効果」の試算もあって然るべきではなかろうか。

 私にはタバコの経済効果がどのくらいなのか算出する力量は、もちろんない。

 しかし、確実に「効果がある」と言える分野はある。(ただし、これもとても算出できない。)

 それは、文化の分野である。

 
 タバコが普及してからこの方、「タバコがあったからこそ」書かれた小説や論文・音楽その他の文化的産物は、実に莫大な量に及ぶ……

 と、皆さんは思われないだろうか。

 そういえば一昔前は、作家の2大必需品と言えば「タバコとコーヒー」が普通に挙げられていたようである。

 (これに、人によっては酒が加わる。)


 皆さんも一人や二人は愛煙家で知られる作家を挙げられるだろうし、

 タバコやパイプを咥えた顔写真をイメージすることもできるだろう。

 もしタバコがなかったら、我々がいま持っている文化作品のかなりの部分が、初めから現れることもなかった――

 と想定するのは、的外れなことだろうか。

 
 私には「タバコで寿命を縮めた」作家というのがなかなか思いつかないので、酒の例を出すが――

 かの有名なエドガー・アラン・ポー推理小説の始祖である)は、これもまた有名なことに酒の飲み過ぎで(明らかにアルコール中毒である)悲惨な死を遂げた。

 明らかにポーの命は、酒が奪った。

 ではポーは、禁酒すべきだったろうか。

 私には、「酒を飲まないポーなんてポーじゃない」と思えるのだが。

 そしてポーじゃないポーは、今も読まれるような小説を書けなかった・書かなかったのではないかと非常に強く思うのだが。

 ハッキリ言って我々の文化にとっては、ポーは酒で身を滅ぼしてくれて良かったのではないか。

 そうでなければ、ポーの作品は生まれもしなかったのではないか。


 そして私には、「タバコを吸わなきゃ何も書けない、ロクなのが書けない」という人は、今でもゴマンといるはずだと思えるのである。

 もしタバコが完全に禁止されたら、そういう人はどうなるのだろう。

 タバコがあれば、それを吸っていれば面白い作品を世に出してくれたかもしれないのに、タバコがないせいでそんな作品は生まれなかった、というのは大いにありそうな話である。

 
 もちろん、こんな話に説得力がないのはわかる。

 人は「ありもしないもの」がないからと言って、残念に思うことはできないからである。

 もし織田信長という人物がいなかったら、現代の我々は「もし織田信長みたいな人物がいたら」なんて思うことは絶対にない。

 だから、「タバコがあれば生まれたかもしれない文化作品」を惜しむことも絶対にない。

 しかし、それはそうであっても……

 「タバコがなければ生まれない作品」は、これからの未来にかけて無数にあるに違いない、と私は思うのだが、どうお考えだろうか。

 

井岡一翔のタトゥーは厳重注意処分…と、アイヌの入れ墨文化について

 昨年大晦日のボクシングタイトル戦で、塗り隠していたタトゥーが試合中に剥げて露出してしまった、WBO世界スーパーフライ級王者の井岡一翔(31歳)。

 1月22日に日本ボクシングコミッションが下した処分は、「厳重注意」であった。

 ハッキリ言ってプロレスファンにとっては、入れ墨を入れた選手を見ることに何の抵抗もないであろう。

 そんなのは普通に大勢いるし、テレビで(CSだが)さんざん映されている。

 入れ墨なんて、プロレス界ではごく普通の光景なのだ。

 だが、一般世間の入れ墨を見る目はまだまだ非常に厳しい。

 今回の井岡についてはもちろん、この「軽い処分」に対しても、さんざん批判が集まることだろう。

 ただ、それが日本の(こういう言い方も何だが)ガラパゴス的感性である、というのは日本人もわかってはいるのである。

 今の世界標準は、入れ墨を問題としない。それは(どうでも)よい。

 しかし日本には日本の事情があるのだから、世界がどうあれ日本人が入れ墨を排撃するのは正しいのだ、という論法が日本のスタンダードである。


 さて、ここで、私が昔から思ってきたことがある。

 それは、アイヌ民族の入れ墨風習についてである。

 言わずもがなのことだが、アイヌには入れ墨の風習があった。

 若い娘が結婚したら、口の周りに「唇を大幅デフォルメしたような」形の入れ墨を入れる――

 そんな風習下にあるアイヌ女性の写真を見たことがある人は、かなり多いだろう。

 そして現在(いや、数十年前から)、アイヌの伝統や文化を保存継承しようという運動は盛んである。

 最近は北海道は白老町に、民族共生象徴空間と題するウポポイという施設もできた。
   

 だが、それにもかかわらず――

 アイヌの伝統文化である「入れ墨」を復活させよう、見直そうという声は、私の知る限り誰も上げていない。

 入れ墨は、アイヌ文化の核とまでは言わないまでも、非常に重要な部分ではあったはずである。

 しかしその復活を唱える者は、アイヌ文化の継承に熱意を持って打ち込む人の中にさえ誰もいない。

 これは、ニュージーランドの女性外務大臣(先住民出身)が率先して?顔に入れ墨を入れたのとは、ハッキリ対照的である。

 どうしてこんなに、違うのだろうか。

 
 「いや、それは、アイヌ人自身がそういう風習を捨てたのだから、問題ない」――

 そうだろうか。

 それは、日本人がそう仕向けたのではないか。止めさせたのではないか。

 これはむろん、文化侵略であり文化剥奪である。

 今のアイヌ人自身が「入れ墨なんて継承しない、したくない、そんな気はない」と心から思っているのだとしたら、それこそが文化侵略の完成でなくて何なのか。

 そしてまた、その民族自身が捨てたのなら問題ないというのなら、どんな文化も消滅して問題ないということでもある。

 だったら「アイヌの祭りなんてメンドクサイから参加しないよ。あんな格好して変な踊りしたくないし」というアイヌ人(の血を引く人)が多数になれば、そんな祭りは消滅しても構わないということだろう。


 そして、これは非常にキツい言い方ではあるが――

 結局のところ文化も伝統も、失われてしまえば誰もそれを惜しまない、というのがこの世の真実なのである。

 日本人はチョンマゲの風習を失い、お歯黒の風習を捨てた。

 今、誰もそれを惜しんではいない。

 アイヌ人は日本人の文化侵略により入れ墨の風習を抑圧・根絶されたが、どんな理由だろうといったん失われれば、誰もその復活を目指そうなどと思わない。

 アイヌ文化における入れ墨がそうなのなら、他のアイヌの風習だって同じである。

 そして遠い未来には(そんなに遠くない?)、日本人の末裔が日本語を失い、英語や中国語を喋ち書く時代も来るかもしれない。

 そうなったとき、誰も日本語の復活を願うことはないだろう。

 ただ好事家や学者のみ、そんなものを研究しようとするだけだろう。

 これが、伝統と文化というものの真実なのだ。


 それにしても、私は思う。

 かつて、結婚して口の周りに入れ墨を入れた娘の顔を見て、感涙したアイヌの父母は何万人に及んだろうかと。

 そういう記憶も感動も、こうもはかなく消し去られるものだろうかと。

 人生はむなしく、「大切な」文化も伝統も全てむなしい……

 そういう真実を、日本とアイヌにおけるタトゥーの位置づけは、教えているのではなかろうか。