5年前、フランスの週刊新聞『シャルリー・エブド』が、イスラム教の開祖・ムハンマドの風刺画を掲載したとして、イスラム教徒の襲撃を受けた。
そしてこの2020年9月1日、同紙は再びムハンマドの風刺画を表紙とし、これからも(タブーなき)風刺画を掲載し続ける決意を表明した。
これについてフランスのマクロン大統領は――
「フランスには冒涜(ぼうとく)の自由がある。
私はそうした自由を守るためにいる」
と、会見で語ったとのこと。
(⇒ 朝日新聞 2020年9月2日記事:シャルリー・エブド、ムハンマド風刺画再掲 不屈へ決意)
(⇒ SankeiBiz 2020年9月2日記事:マクロン大統領「フランスには冒涜する自由がある」 ムハンマド風刺画再掲載で)
このニュースの扱いは、日本ではまことに小さなものだと思う。
しかし私は、これはものすごい重大な意義があるのではないかと思う。
それがどれほど大きいかというと、それこそフランス革命における「人権宣言」と同じくらいではないかとさえ思う。
「フランスには、冒涜の自由がある」
「フランスは、冒涜の自由を守る」――
これは、凄まじい宣言である。
日本の政治家は、いや日本人は、決してこのような宣言はできない。
日本人なら、必ずこう言う――
「表現の自由はある。
しかし冒涜の自由はない。
履き違えてはならない」
と。
ムハンマドを冒涜する自由を守るということは、
イエス・キリストのスカトロエロ画像を描く自由も守る、ということである。
ブッダのオナニーを描く自由も守る、ということである。
むろんマクロン大統領も、そんな風に言われることを百も承知で、それでもなお宣言している。
こんなことは、日本人には絶対できない相談である。
あなたは日本の政治家が、いや市井の日本人でさえ、「日本には冒涜の自由がある」なんてテレビカメラの前で答える人がいるとはちょっと想像できないだろう。
むろん宣言は宣言であって、実践とは必ずしも繋がらない。
特にフランスが「人種差別の否定」と「冒涜の自由」とを、どう両立させていくかは見ものである。
それでも大統領が「人間には冒涜する自由がある、その自由は守る」と堂々と宣言したことで、
フランスははっきりと「自由主義陣営」に属するということ、
そればかりかその旗手であることを鮮明にした。
さすがフランスと言うべきか、いまだフランスは世界の「思想大国」である。
日本はこの点、まだまだその足下にも及ばない。
世界の自由の総本山、自由の旗手、自由の砦と言えば、アメリカのことであった。
しかしそのアメリカも、最近はBLM(ブラック・ライブズ・マター=黒人の命も大事)運動に見られるように、
明らかに自由主義陣営から「配慮主義陣営」に鞍替えする傾向が見られる。
そして言うまでもなくわが日本は、「配慮主義陣営」の超大国と言える存在である。
「配慮」とは日本において、最高の道徳律であり人の道である。
今年の「木村花事件」以後は、より一層「誹謗中傷」に対する態度が厳しくなり、
とてものことじゃないが「冒涜の自由がある、守る」などと言える状況ではなくなっている。
世界はいまや、雪崩を打って配慮主義陣営への傾斜が進んでいる、と言っても過言ではないかもしれない。
そんな中フランスは、「配慮より自由」という姿勢を鮮明にした。
2020年9月1日のマクロン大統領の宣言により、自由主義陣営の盟主はアメリカからフランスに移った、とさえ捉えることはできるだろう。
いささかカッコよく言えば――
フランスはフランス革命以来、約200年ぶりに、自由の祖国と呼べる地位に復帰した。
もし思想的な人類最終戦争が勃発するとするなら、それは自由主義陣営と配慮主義陣営の間で戦われるだろう。
フランスはもちろん、自由主義陣営に立つはずだ。
逆に日本は(たぶんアジア諸国は、そしてアメリカさえも)、まず間違いなく配慮主義陣営に立つ。
その戦争の勝利の行方は、予断を許さないものがある。