プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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子殺しの親の恫喝で市教委が子の書いたアンケートをその親に渡す&校長が念書を入れる-「訴訟にしない」のは時代遅れである

 千葉県野田市で小学4年生(10歳)の娘を死亡させた父親(41歳)が逮捕されたが――

 その父は「躾としてやったことで、悪いことをしたとは思っていない」と言っているそうだ。

 そして彼の「訴訟も辞さないという恫喝的な態度」に恐怖を感じた市教委は、なんとその死亡女児が「お父さんにいじめられている」と書いたアンケート解答用紙を彼に渡し――

 加えて女児の通う学校の校長は、女児に関する情報開示を約束させる念書を、彼に差し入れていたらしい。

(⇒ 共同通信 2019年1月31日記事:死亡小4「お父さんに暴力」訴え アンケート回答、恐怖感で渡す)

(⇒ 日テレNEWS24 2019年1月31日記事:小4女児死亡事件 逮捕の父親は校長に情報開示を約束させる)

 
 こういう事件があるたびに思うのだが、我々は「親子の絆」なるものを過大評価しすぎである。

 バカでもクズでも異常者でも、親になることなんて誰だってできる。

 そしてもちろん「親に向いてない人間」もまた、生殖機能さえあればごく簡単に親になれる。

 親子の血のつながりなんて、その程度のものだ。

 こんなことを神聖不可侵みたいに思うのは、そうであるべきだと信じるのは、しょうもない血縁主義というものである。

(血の繋がっている人間だから信頼できる/究極的には血の繋がっている人間だけが信頼できる――

 というのは錯覚で、そういう考えが先にあるからこそそんな風に思うのだ。

 それが間違いであることは相続争いなどで始終証明されているのに、人類は本当に懲りないものである。)


 そしてもう一つ――

 「訴訟するぞ」と脅されたなら、「じゃあ訴訟してください」と言えばよい。

 実際私は仕事の場で、何度かそんなことを相手に言ったことがある。

 もちろん彼らは訴訟しない。(したとしても間違いなくこっちが勝てる。)

 訴訟になって困るのは、(たいていは)むしろ訴訟をちらつかせている側である。

 また、裁判なんて、しょせんは「意見が合わない者どうしが決着を付ける」ためのものだ。

 もしも双方の意見が合わないままならば、裁判になるのはいたってフツーのことではないか。

 なにもそれは、決死的な決意でビビらなければならないようなものではない。

 
 そもそもの話だが、これほど「法化社会」と言われているのだから、訴訟したりされたりするのは「よくあること、当然のこと」と思うべきである。

 それを「避けたい避けたい」と、矢面に立つ担当者や校長だけでなく周りのみんなが思っている状態だから、こんな恫喝が通るのだ。

 もしあなたがこういう報道に憤りを感じるようなら、あなたの同僚が対応した客に訴訟を起こされても、彼や彼女をトラブルメーカーと思わないことである。

 訴訟なんて、日常茶飯事であるべきである――

 とまでは言わないが、長く生きていれば一度くらいは経験するものだと思うべきではあると思う。


 ハッキリ言って、訴訟を避けたり恐れたりするのは、もはや「時代遅れの感性」である。

 そういう時代遅れの感性を持っている人間が多ければ多いほど、世の妨げや害になるのは、こんな事件を見ていればわかることだろう。