新年早々、今年第1号のCM炎上は、そごう&西武百貨店の「わたしは、私」という「女性がパイを投げられる」CMであった。
これにはネット界から、パイならぬボロクソの批判が浴びせられている。
それにしてもこういうことがあるたび、世の人々は不思議に思っているはずである。
なぜこういうCMが作られるのか、なぜ社内稟議を通っているのか、と――
まず第一にこれ、「パイ投げ」というもの自体が、要らぬ批判を招くことは誰にでも想像が付く。
よく知られているように、今のテレビ番組でパイ投げ&顔面押しつけがなくなってしまったのは……
そして食べ物を使う際は必ず「この後スタッフが美味しくいただきました」とテロップ表示されるのは、
「食べ物を粗末にしている」という視聴者(つまり社会)からの批判を受けないようにするためである。
それなのにこの時代、まるで先祖返りしたかのようにパイ投げである。
いわゆる「逆張り」を狙ったのかもしれないが、やっぱりその狙いは外れていると言わざるを得ない。
そしてもう一つさらなる疑問は、「いったいこれは百貨店のCMなのか」というものである。
CMの実物を見ればわかるように、その映像と台詞はメチャクチャ政治的である。そんなことは誰だってわかる。
最後にそごうと西武百貨店の名称及びロゴが表示されなければ、誰もこれが百貨店のCMとは思うまい。
私としてはまたまたこの時点で、CMとしては失敗だと感じてしまう。
こう言っては何だが、これは「たかが百貨店のCM」「たかが商売の宣伝」である。
それなのになぜ人は、政治的な意見や哲学的なメッセージをそこに盛り込もうとするのだろうか。
いや、盛り込むと言うより、なぜそれ一色に染め上げようとまでしてしまうのだろうか。
(このCM、商売のエキスはほんの一ミリも入っていない。)
こうして疑問形にしてはいるものの、私にもあなたにもその答えはわかっているはずだ。
このCMを作ったのが広告代理店にせよ、そごうや西武百貨店の自前の広告制作部門にせよ……
そこにいるのは、きっと他の人よりクリエイティブな人たちなのだろう。
そして少しでも人よりクリエイティブな人は、たとえ商業広告だろうと「メッセージを盛り込みたい」と強く感じるものなのである。
そして伝えたいメッセージと言えば、もちろん「物を売りたい」ではなく、政治的・哲学的なメッセージなのに決まっている。
(これは、誰でもそうなる。)
この「メッセージを伝えたい衝動」というのは、もうクリエイターの業(ごう)である。
(もっとも、卑近に言えば、「メッセージかぶれ」とした方がいいのかもしれない。)
その衝動は制御するにはあまりにも強大で、自分が作っているのが商売の広告だということさえ忘れてしまう――
それも一人ではなく、(みんなクリエイターなのだから無理もないが)集団催眠の如く製作チーム全員が忘れてしまう。
それどころか「これこそが理想のCM」という熱意が高まってしまうことは、誰でも理解できるのではないだろうか。
おそらく「百貨店のCMに政治的メッセージを込めるべきか」と問えば、ほぼ百パーセントの人が「否」と答えるはずである。
しかし実際には、そういうCMが作られることは絶えることがない。
今回のCMだって、制作陣はまさか「これは政治的メッセージではない」などと思っていたわけではないだろう。
女の時代だの何だの、「女性の活躍」なんてものに言及するのが政治的メッセージでないなんて、現代人にはあり得ないような認識である。
だが、それでもこういうCMを作らずにはいられない。
なぜなら、それがクリエイターの業であり衝動だからである。
少し意地悪く言えば、
「自分たちは、人に物を買いたくさせるような低俗なCMは作りたくない、
もっと高尚な、人にものを考えさせるようなCMを作りたい。」
との自負や衝動には、ほとんどのクリエイターが抗えないだろうからである。
もちろん今回のCMの制作陣には女性もたくさん参加しているはずだが、クリエイターなら男も女も関係なく、こういう衝動に身も心も委ねるからである。
よって当然ながら、今回のような炎上事件は何度でも繰り返し起こるだろう。
「物を売るための広告なのに、政治的哲学的メッセージを込めたがる」――
このクリエイターらの“暴走”を食い止めることができるものこそ、会社内部の誰かの「生活者の視点」というものなのだろう。
たぶん地に足の付いた「商人」であれば、このCMを見て呆れるのではないだろうか。
「これ、百貨店のコマーシャルですよね?」と……
そしてもっと昔の商人であれば、「お公家さんのなさることですなぁ」なんて言うかもしれない……