プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

社会、ニュース、歴史、その他について日々思うことを書いていきます。【プロレス・格闘技編】はリンクからどうぞ。

聖闘士星矢のアンドロメダ瞬が女性化で批判、の今更感-「美しくなければ何にもなれない」問題

 往年の人気漫画「聖闘士星矢」が、Netflixで来夏に新エピソード放送開始になるに当たって――

 そのキャラの一人アンドロメダ瞬」が女性に設定変更されるということで、原作ファンの間で批判と動揺が広がっているという。

nlab.itmedia.co.jp

 
 脚本家(外国人)によると、この改変の理由は――


●青銅聖闘士が全員男性であるという点に、引っかかりを覚えた

●30年前であれば、世界を救う戦士が少年たちだけでも違和感はなかった

●しかし、男女が平等に働くようになった現代において全員男性のチームを描くことは、「良くも悪くも、視聴者が何らかの意見表明(STATEMENT)と解釈してしまう可能性がある」


 からだそうだ。

 誰でも感じるのは、これが政治的に正しい意見だとすれば、これから作られる「世界を救う」系の作品では……

 そのチームを必ず男女混合にしなければ、最低一人は女性を入れなければ、女性蔑視の意見表明として世間からボコボコに叩かれるのだろうか、という疑問だろう。

 では逆に、あのセーラームーンとかにも最低一人は男を入れなくては、今となっては正しくないことになるのだろうか。

 そして、昔からスーパー戦隊シリーズには1人は女性メンバーがいたものだが、この視点からは「合格」なのだろうか。

(ただし、メンバーが5人ではなく3人しかいなかったサンバルカンは、3人とも男だった。

 やはりこれは「失格」だろうか。)

 

 いや、今は戦隊シリーズ5人のうち2人までが女性であるのが普通だが、この人数比率も問題とされるべきではないか。

 つまりこれからの戦隊シリーズ、「世界を救う」系の作品は――

 主要メンバーを偶数にして、男女半々にする必要があるのではないか?

 そういう方向に話が行くのは、むしろ当然のことである。


 しかしながら実のところ、世界を救う系だろうと何の系統の創作物だろうと――

 その主要メンバーの中には間違いなく女性か女の子が入っている、

 もしくはその全員が女性か女の子である、

 というのが日本においては圧倒的多数を占めているのは、もちろんみんな知っている。

 女性化という点で言えば、アンドロメダ瞬どころか軍艦やパソコンソフトまで擬人化し美少女化されているのだから、何を今さらという感じだ。

 そしてその理由が男女平等とかそんな政治的・理念的なものではなく、もっぱら商業的な理由であるということも、みんな知ってないはずがない。

 

 女性キャラを入れるのは、もちろんそれがカネになるからである。

 また言うまでもないが、その女性キャラというのは全員が美人・美少女であって、間違っても(現実世界には普通にいるような)不美人やイモネーチャンではない。

 そして今回のアンドロメダ瞬にしても――

 つい先日誕生した「初の男の子プリキュア」と同様、またしても「初めから女の子みたいな美少年」である

tairanaritoshi-2.hatenablog.com


 私にはこの脚本家が、女性化するのにアンドロメダ瞬をチョイスした気持ちがよくわかる。

 いや、わからない人なんていないだろう。

 もしあなたが「聖闘士星矢のキャラの中で女性化させるのが適当なのは誰か」と聞かれたとすれば、絶対に瞬を思い浮かべたはずである。

(しかし、口にするのは別のキャラかもしれない。

 人に聞かせる/見せる回答には、ウケ狙いや「普通の回答はしたくない」という要素が混じるからだ。)

 

 つくづく思うのだが、聖闘士星矢にせよプリキュアにせよ、日本のほぼ全ての創作物にせよ―― 

 それらに貫かれているのは、それらを支えているのは、まぎれもなく「美人資本主義」である。

 端的に言えば、その世界では、「美しくなければ存在さえも許されない」のだ。

 いったいアニメでも漫画でも、その主要人物である女性や女の子が不美人・非美少女だなんて作品を、あなたはどれだけ見たことがあるか。

 そんなものは需要者も望まなければ、製作者も望みはしない。

 少なくとも日本の創作世界には、美人・美少女以外の女性は、まさに存在さえしない。

 そして「男の子でもプリキュアになれる!」かもしれないが、それは当然のことながら、元からの美少年にしか許されない。

 誰に許されないか受け入れられないかと言えば、視聴者と製作者の両方にである。


 現代日本の子どもも大人もこういう作品群に囲まれて生きているのだから、

「美しくなければ価値がない」

「何でも出来る! 何でもなれる!

 しかし美しくなければ何にもなれない」

 と考えたり刷り込まれたりするのは、全く理に叶ったことと言える。

 製作者たちと受け手たちは、こういうメッセージを送り、そして共感している、とも言えるだろうか。