7月3日、最高裁は旧優生保護法の立法自体を違憲とする判決をした。
旧優生保護法による不妊手術を受けた原告らの全面勝訴であり、一定期間が過ぎるとどんな理由でも損害賠償請求権がなくなる「除斥期間」についての判例は、35年ぶりに変更された。
(⇒ 産経新聞 2024年7月3日記事:「時の壁」に風穴 旧優生保護法訴訟 除斥期間巡り最高裁が35年ぶり判例を変更)
誰もが思うように、これは「遡及違憲判決」である。
旧優生保護法は当然ながら正当な国会の議決で成立した法律だが、それが現在から遡って「やっぱりあれは違憲だった」とされたのである。
いや、そういう遡及違憲判断が許される前例ができた、と言うべきか。
これは法学や法律実務の世界ではかなりのセンセーションを巻き起こす、画期的判決だと思うが――
しかし私には、というより少しでも法律の本を読んだことがある人には、特に驚くべき判決ではないとも言える。
なぜなら、法学及び裁判の世界では、こんなことはよくあるからだ。
法律の本を一冊でも読みさえすれば、必ずやこういうフレーズを見出せるだろう……
すなわち「妥当な結論を導くには」というフレーズである。
つまりまず、「被害者を救済する」という目的(イコール結論)がある。
それを導くための理論構成はどうするべきか、ということが書かれていない法律書というのは、たぶんない。
これは裁判でも同じことで――むろん全部が全部ではないが――、まず被害者を何とか救済するという結論(判決)が先にあり、それを導くための論理を後付けで組み立てる形の裁判は、今までゴマンとなされてきたことだろう。
私はこれを心ひそかに、「便宜判決」または「まず結論ありき判決」などと呼んでいる。
それは公害事件に関する裁判や法律構成で、特によく見られるタイプの判決である。
しかしこう言ったからって、別にそれらの判決や今回の判決をバカにしているわけではない。
しょせん法律も裁判も、こんなもんだと思うからだ。
誰でも知っていることだが、なんたって最高裁は自衛隊の存在を合憲としているのである。
さすがにこれを違憲だと判例変更することは、将来もまずないのである。
あれほどハッキリ憲法に「陸・海・空いっさいの戦力を保持しない」と書いてあるにも関わらず、
誰がどう考えても自衛隊は戦力であり、従って違憲なのに決まっているにも関わらず、
ここでもやはり「自衛隊は違憲ではない」という結論を先に決め、そうなるように理屈を組み立てているのである。
今回の判決でも、まず「被害者を救済する」という結論が先にあった。
その救済する便宜として、旧優生保護法を「遡って」違憲とし、除斥期間を無効とした。
言うまでもなく国に賠償を命じたのは、断種手術を受けた人を救済できるのは国しかないからである。
別に、国に――今の政府に――悪事の責任があるというわけではなく、これもまた便宜のためである。
これは、そりゃそうだろう仕方ないだろうという話ではあるまいか。
ただ、法も裁判もこの種の「便宜」あるいは「まず結論ありき」のものなのだ、ということについては――
自然科学に携わる人たちなんかにとっては、はなはだ冷笑の的になるだろうとは思われる。
これだから文系は、なんて心の声が聞こえてきそうではある。
私がこういう判決を聞いて、さほど冷笑したり心を騒がすことがないのは……
たぶん、根っからの文系人間(明らかに理系人間ではない)だから、ということになるだろうか。