プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「費用対効果」は日本没落の一因だろう

 今の日本では、どこを見ても「日本ダメ論」「日本没落論」「日本衰退論」が花盛りである。

 ネットさえ少しでも見ていれば、そんな記事を見ない日は一日もないと言っても過言ではない。

(⇒ 現代ビジネス 2022年8月3日記事:日本政府が「28兆円」をひっそり無駄に…! 日本を「先進国で断トツ最低」に転落させた“日本政府の大罪”)

(⇒ 現代ビジネス 2022年8月9日記事:日本は「もう終わった国」なのか…H&M、GAPなどが“閉店続々&撤退ラッシュ”で、外資系アパレルチェーンに「日本が見限られた」!)


 では、なぜ日本はダメで、衰退するしか道はないかのような羽目に陥っているのか。

 もちろん、たった一つの原因にそれが特定できるようなことではないが――

 私が「これはかなり決定的な要因だろう」と思うのが、「費用対効果」思想の普及である。


 費用対効果、これが大事だと思わない人はいない。

 何をやるにしても費用対効果をまず考えよ、

 そうでない者はビジネスパーソンと言うよりも社会人一般の風上にも置けない、

 費用対効果こそ全ての仕事の基礎であり、当然にして神聖なる基準である……

 こういう考えは、疑う余地もない真実・正義として、ほぼ全ての日本のビジネスパーソンに受け入れられているはずだ。

 だが、しかし――

 この費用対効果の精神こそ、日本のイノベーションやアイデアを圧殺し、枯らしているのではなかろうか。

 そのせいで、やってさえいれば巨万の富を生み出していたかもしれない案を、むざむざ無かったものとしているのではないか。

 たとえば私が上司で、あなたが部下だとする。

 あなたは新たなプロジェクトを考えて企画書に書き、私に提出するとする。

 私は、たとえあなたが千の企画書を持ってこようと、全てを却下しダメ出しする自信がある。

 なぜならあなたの企画書に書いてあることは、全て実証されていないからだ。

 確かにそこへ費用対効果の検討は書いてあるのだろうが、そんなものは全て「机上の空論」と片付ければよい。

 「おまえ、自分の都合のいい数字ばっか拾ってきただろ」

 「都合のいい流れを、ストーリーを、答えを決めて作ってるだろ」

 とツッコミを入れることは、実に容易なことである。


 そもそもあなたの新プロジェクト案に、新商品案について、真に説得力ある費用対効果の計算なんてできるだろうか。

 できるとして、そんなものを(普段の仕事をやりながら)計算・作成するのに、どれほどの期間がかかるだろうか。

 世の中の人は、費用対効果の計算というのをものすごく甘く見てはいないか。


 2012年、新日本プロレスユークスからブシロードに身売りされた。

 そこで新親会社のブシロードがやったのは、都内の電車に新日本のラッピングを施すなど、大々的な広報作戦であった。
 
 それが不振に喘いでいた新日本の、V字回復の大きな一因になったと言われている。


 そこで、あなたに問う。

 こんな広報戦略の費用対効果を、予めどう計算するか。

 この戦略は(おそらく)ブシロード社長の木谷高明オーナーの主導で行われたのだが――

 その木谷オーナーさえ、そんな費用対効果を正確に計算できていただろうか。

 あなただったら、それをどう計算したか。

 いや、あなたがそんな計算をしてきた部下の上司であったら、本当にそれを「いい案だ!」と――もちろん自分でも計算してみて――賛同したか。突き返しはしなかったか。

 ひょっとしたらあなたは、部下・木谷の提案を「費用対効果が十分に示されていない」と、斥けたのではないか。

 
 「費用対効果を示せ!」というのは、誰でも言う正義の言葉である。

 しかし実際は反対に、できもしないことを示せという「悪魔の証明」を求める悪魔の言葉にもなっている。

 だいたい逆に、そんな言葉を口にする人もまた、その提案に費用対効果が「ない」ことを証明しないといけないのではないか。

 もっともこれは、裁判における立証責任のように、それが「ある」ことを主張する者(つまり提案者)の方が示す責任があるのだ、と言うこともできるだろう。

 だがそれは当然、提案者を委縮させることになる。

 どうせ費用対効果を計算するのは途方もなく難しく、しかも(当たり前だが)実証されていないのだから、まさに叩かれ放題・ツッコまれ放題になるのがわかっている。

 それがわかっていて、どうして活発に提案がなされるなんてことがあろうか。

 
 「費用対効果」という言葉が一般ビジネスパーソンに普及し、「社会人の常識」となってから、もう30年くらいは経つだろうか。

 その30年間、どれほどの数の珠玉のアイデアが費用対効果の名の下に葬り去られてきたか、

 そもそも勇気を出して提案されることさえなく死蔵されてきたか、

 空恐ろしい気分になるのは私だけだろうか。

 そしてまた、日本と違ってグングン経済成長している他国では、特に大成功した起業家たちは、本当に厳密な費用対効果を計算して事を起こし・進めているのだろうか。

 結局、日本における「費用対効果」という言葉は、新規なことに取り掛かる面倒くささをや果断さを取り除く大義名分になっている――

 と感じるのは、私の錯覚だろうか。

 少なくとも私は、ある提案に「費用対効果に疑問」とか言っている人がその提案の費用対効果を自分で計算しようとしているのを見たこともないし、想像もしがたいのだが……