かの邪馬台国の所在地として、九州説と近畿説が対立しているのは誰でも知っている。
特に近畿説の最有力候補は、奈良県桜井市にある纒向(まきむく)遺跡である。
その遺跡で2009年に出土したモモの種を(名古屋大学の研究グループが)今回調べたところ、西暦135年から230年にかけて食べられたものだとわかり、ちょうどその年代に存在したはずの邪馬台国は、やっぱりここにあったのではないかという「論証」を発表したそうだ。
いったい、その年代のモモの種が発見されたからといって、だからここに邪馬台国があったという「論証」がどうして成り立つのか、非常に不思議だ。
これって、「その年代のイネの遺物があったから、ここが邪馬台国だ」というのと何が違うのだろう。
そんなことならやっぱり今までと同じく、日本中どこでも邪馬台国になってしまいそうである。
モモの種が出たくらいで邪馬台国の所在地がわかるなら、こんなバカみたいに簡単なことはないだろう。
そしてさらに、上記引用記事の中には――
もしも卑弥呼が不老不死の西王母にならってモモを食べていたなら、今回の纒向遺跡で大量のモモの種が出土したこととつなぎ合わせ、また年代も合致することから邪馬台国の場所である可能性が高い。
なんて書いてある。
「もしも卑弥呼が不老不死の西王母にならってモモを食べていたなら」って、いったいどういう仮定なのだ。
「今回の纒向遺跡で大量のモモの種が出土したこととつなぎ合わせ」って、そんなのつなぎ合わせていいのか。
いや、私も邪馬台国が本当はどこにあったのかなんて知るわけないし、近畿説は間違っているとももちろん言えないが……
それにしてもこの近畿説の、「近畿の遺跡で出たものは、なんでもかんでも邪馬台国にこじつける」という姿勢は、いささか度を超して鼻につくように思われる。
こんな「論証」が成り立つなら、布や鉄鏃(てつぞく。鉄製の矢尻)の出土量は北九州の方がはるかに多いのだから、邪馬台国の所在地はやっぱりそこだと「つなぎ合わせる」論証の方がはるかに説得力があるのではないか。
どうも今回の「論証」あるいは上記引用記事もまた――
“ 何かチョッと出てくれば、チョチョッとすぐに何か書ける ”
という、邪馬台国論争の汲めども尽きぬ魅力の源泉を如実に表しているように見える。
そしてこれは特に、近畿説の方にはなはだしいように見える。
「邪馬台国本」を何冊か読んできて感じるのは、どうも近畿説の論者というのは、無意識なのか意識的なのか――
「邪馬台国とその後の大和朝廷は、つながっていてほしい」という願望・前提・ロマンがあるんじゃないか、ということである。
しかし私は思うのだが、邪馬台国と大和朝廷は「何の関係もない別の国」という可能性の方がむしろ大きいのではないだろうか?
邪馬台国は一時は強勢を誇ったものの、後継になる国を残さず滅んだ、世界史の中で腐るほどある国々の中の一つである。
その方がずっとありそうなことのように思える。
なにしろ日本は、今でも「大和朝廷」が続いている国である。(もちろん、天皇家が続いているからだ。)
もし邪馬台国が大和朝廷の前身であり、卑弥呼が天皇家の祖先であるならば、なんと日本はその歴史の最初から一度も王朝交代が起こっていないことになる。
(その前には漢に朝貢した「奴国」「倭国王・帥升」もいたし、初期大和朝廷は実は王朝交代が何度も起こっていたという説もあるが……)
しかし、本当に一度も王朝交代が起こっていないというのは、世界的に見てあまりに異常なことである。
西暦200年代にはもう原・大和王朝が日本列島の最有力勢力であり、それがそのままずっと続いたというのは、やっぱり異常なことである。
この日本(だけ)がそれほどまでに異常な歴史を持っているというのは、どうにも不自然ではないか?
せめて一回くらい王朝交代や、諸王朝の興亡が起こらないのはおかしくないか。
私は別に、邪馬台国と大和朝廷がつながっていなくても残念には思わない。
当然、邪馬台国がどこにあってもかまわない。
邪馬台国が、中国人には「卑弥呼」や「壹与」と書かれた女酋のいた――そしていつの日か滅んだ、大和朝廷とはあまり関係ない一時的な土侯国だったとしても、それはそういうことも当然あるんじゃないのと思う程度である。
そしてまた、近畿の纒向の集落でモモを食ってた人たちがいたなんて、当然あるんじゃないのと思う程度である。
はっきり言って近畿説というのは――
ミソもクソも一緒にして、何でもかんでも邪馬台国に結びつけたがる傾向が著しくないか。
そういうのは多くの古代史ファンに、むしろ「またか」というウンザリ感を与えている気がするのだが……