プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「森友」で佐川国税庁長官辞任&近畿財務局職員自殺-人は仕事で殺される

 奇しくもこの3月9日、あの「森友学園」絡みの2つの事件が報じられた。

 一つは、佐川宣寿国税庁長官(前理財局長)がついに/とうとう辞任したこと。

 もう一つは、森友問題当時に学園側と直接売却交渉していた職員の部下だった男性職員(上席国有財産管理官)が、3月7日に自殺していたことである。

dot.asahi.com

 

www.sankei.com


 このうち佐川長官の方は、そりゃまぁそうなるだろうという感想が大半だろう。

 世間のほとんどの人は、「この人はもう長くない」とずっと思っていたはずである。

 これだけ悪評紛々で叩かれまくって、去年の7月の長官就任から8ヶ月ももった方が不思議というものだ。


 しかし男性職員の自殺の方は、それよりもっと深刻で衝撃が大きい。

 むろんこの自殺が、森友問題とは何の関係もない持病や家庭問題が原因でないとは言い切れないが――

 財務省の森友文書書き換え問題で紛糾するまさにこのタイミングでこんなことが起こったら、関係ないとはとても思えない。


 それにしてもこの男性職員、本当に運の悪い人である。

(そして「直接交渉に当たっていた」この人の直属上司も、いずれ自殺してもおかしくないだろう。)

 いくらこの件について近畿財務局を非難・批判する人でも、まさかこの人が悪行を主導したのだとは言うまい。

 この人は、悪い時に悪い立場にいたのである。

 言ってみれば、道を普通に歩いていたら落石に遭って直撃・死亡したようなものである。

 この人は、単に人事異動で、たまたまあのタイミングで、近畿財務局の上席国有財産管理官になっていただけだ。

 他の誰がそのポジションにいたとしてもおかしくなかった。

 そしてあまりにも不幸なタイミングで、森友学園の籠池理事長だのその妻だのの訪問を受けることになったのである。

 恐ろしいのは――言うまでもないことだが――、こんなことは(仕事している以上)誰にでも・いつ起こってもおかしくないという点である。

 あなたも他の誰それも、明日にでもこういう目に遭うかもしれないのだ。

 

tairanaritoshi-2.hatenablog.com


 なんでも上記引用AERA記事によると、


●2015年4月には、学園側が軟弱な地盤を理由に貸付料の減額を求めてきた。

 これに対して財務省内では、「『無理に本地を借りていただかなくてもよい』と投げかけることも考えている」と、学園との賃貸契約の破棄も検討していた。

●しかし2015年9月、首相夫人の安倍昭恵森友学園系小学校の名誉校長に就任した。

●2015年11月、昭恵夫人付の政府職員が財務省に「問い合わせ」のFAXを送付した。その頃から交渉内容が一変した。


 との流れらしい。

 これはAERAが「そう思わせたいから、こういう流れの記事を書いた」という面もあると思うが――

 しかし一方、俗世間の人間には非常によくわかる(きっとそうであったろうと思う)流れではないだろうか。


(1) 最初は、「そんな要求してくるんなら、交渉なんか応じねーよ」と強気に出る。

(2) しかしそこに、「有力者」の「関係者」が「問い合わせ」をしてくる。

(3) そうなると「圧力」を感じてしまい、交渉に応じるにとどまらず下手にまで出てしまう。

 

 こういうパターンは日本中で繰り広げられていることだろうし、

 あなたもきっと見聞きしたり、それどころか今この時間リアルタイムで経験しているだろうことですらある。

 要するにこれは、俗世間の「黄金パターン」の一つなのだ。


 もちろん安倍昭恵側は、「問い合わせしただけで、圧力なんかかけてない」と言うに決まっている。

 しかしこういう「有力者の関係者」(この場合は「妻」)が問い合わせしてくるということ自体が圧力であるのは、俗世間の常識というものである。

 
 当然ながら、首相夫人とはただの首相の妻であって、首相ではない。それどころか政府の官職にも就いていない。 

 だからそんな「タダの人間」が問い合わせしてこようと、忖度することなどないのである。

 ところが「そういう感じ方は、首相に失礼」なんて“繋がり”を重視する道徳感を持っているからこそ、これが圧力になってしまうのだ。


 人間はもっとドライに、デジタルに――

 気色の悪いドロドロの唾液の糸でひっつくような、「繋がりの鎖」を断ち切るべきである。

 そして雇用を流動化して転職を当たり前にし、

「あ、そんなことさせられるんならボク辞めます」と簡単に言える(思える)ようになるべきである。

 そうでなければ日本人は、いつまで経っても「配慮」と「繋がり」の中で相互抑圧しながら生きていくことになるだろう。

 私はそういう粘つく社会より、カラッと爽快な乾いた社会が好きである。