1人で50兆円の富を持つ大富豪がいれば、40代で月の手取り10万円台の人も大勢いる。
では前者の「能力(才能)」は、後者の100万倍とか1億倍もあるのだろうか。
こう言われると、いくら何でも同じ人間同士の間にそれほどまでに差があるとは信じられない気がする。
だがそれは、現実にあり得る――
一番わかりやすいかもしれないのが音楽の才能で、(これは私のことなのだが)作曲することが全くできない人間というのはゴマンといる。
一方で何十曲何百曲と名曲を生み出し、巨万の富を得る人が何人もいるという現実がある。
私にとっては、作曲などいったいどうやったらできるのかわからない――まさに神業のような能力である。
この場合、両者の差は1億倍どころではない。片方はゼロなのだから、その差は無限大と言える。
だから故スティーブ・ジョブズの「能力」があなたや私の何千倍に達するとしても、それは大いにあり得ることだ。
そしてそれは金銭上、社会上、名声上、ジョブズの価値があなたや私の何千倍何万倍もあるという現実を非常に良く反映している。
よって、「人間は平等である」という“正しいはずの”信念が現代において揺らいでいるのも――
いや、青臭い非現実的な、鼻で笑うべき書生論に聞こえているのも無理はない。
現代は実力主義・能力主義の時代である。能力のある者が価値がある、そして栄達するのが世の中の仕組みとして正しい、これに異を唱えるなんて「自分に能力がない者の負け惜しみに過ぎない」――そういう雰囲気の時代である。
しかし、では、能力がある者は尊敬すべき存在なのか。偉人として賞賛すべき存在なのか?
そんなことが理屈に合わないことは、先日の記事に書いた。
(⇒ 2017年1月9日記事:「AI人事」の時代・適材適所の完成とネオ身分社会の到来 その4)
つまり人間の持つ「能力」というものは、偶然の産物なのである。
それは宝くじに当たったのと全く同じ――いやそれ以上に完璧な偶然/たまたまなのである。
いや、宝くじの方はまだ「買うという行動を起こした人しか当たらない。だから百パーセントの偶然ではない」とも言えようが、能力についてはそんな言い抜けも通らない。
ある能力をある人が持って生まれてくるというのは、徹頭徹尾・疑問の余地なく偶然である。
ある能力を他ならぬ「あなた」が持って生まれてくる、または持たずに生まれてくるということに、“たまたま”以外の何が起こっているというのだろうか。
それを尊敬したり賞賛するというのは、宝くじに当たった人や名門の家に生まれた人を尊敬したり賞賛するのと、どこがどう違うのだろうか。
思うに、「能力」と「人間個体」は元々別のものである。
人間個体は、能力を入れる器にすぎないと言い換えてもよい。
これは、次のように(ちょっと詩的に)述べることもできるだろう。
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この宇宙とは別の宇宙に、無数の「能力」が漂う宇宙がある。
それは「能力の宇宙」「能力界」とも呼べる。
そこにはあらゆる能力がある――金儲けの能力、音楽の能力、運動能力、数学の能力、他の諸々のあらゆる才能……
その種類は数えきれず、大きさ・程度も全て違う。
その総数は無限とまではいかなくても、10の100乗をはるかに超えるかもしれない。
(観測可能な宇宙に存在する原子の数は、10の80乗くらいらしい。)
さてそこには、能力とは別のものも漂っている。
それは「人間の器(うつわ)」である。これもまた、数えることはとてもできない。(これから生まれる全ての人間の素(もと)なのだから……)
ただ違うのは、「能力」が千差万別であるのに対し、「器」の方は全て同じものだということ。
「人間の器」は、「能力」と結びつく。
しかしもちろん、どれとどれとが結びつくかに定めや理由といったものはない。
全てが純粋に偶然である。
器の中に偶然に、とある能力が入っていく――その入る個数も、むろん偶然に決まっている。
次に器は、別の宇宙に行く。
そこは「性格の宇宙」「性格界」であり、やはり無数の性格が――優しい性格、凶暴な性格、人見知りの性格などが、種類も大きさも濃度も何もかも違うまま、数え切れないほど漂っている。
器はそこで、やはりいくつかの性格と結びつく。(中に入れる)
いや、能力の宇宙と性格の宇宙の順番は、逆かもしれない。
それよりもっとありそうなことは、どちらの宇宙も重なっているということだ。
ということは、それらの器との結びつきの偶然ぶりは、ますますはなはだしいものになる。
こうして能力と性格を中に入れた器は、ようやく我々の住む宇宙へとたどり着く。
どこに住む、どの時代に生きる、どの女の腹の中に発現するかは、これまた偶然に違いない。
こうして人間は生まれてくる。
百億の百億倍の、そのまたさらに何百億倍もの偶然の乗算を重ねて……
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自分で言うのも何だが、このイメージは正しいのではないだろうか。
またあなたは、たとえばビル・ゲイツのような人物ならば、どこの世界に生まれてもひとかどの人物として頭角を現したに違いないと、本当に思っているだろうか。
古代ヴァイキング社会に生まれたビル・ゲイツが、「体は貧弱なクセに小賢しい奴」として仲間に斧で叩き割られることはなかったろうと、はっきり確信できるだろうか。
どうもこう考えると、「能力のある人を尊敬する/讃えるべきだ」というのは、はなはだ徒労だという気がする。
もっと言えば、アホらしいことに思える。
たとえ人間の能力に、ひいては年収や市場価値に天地の差があろうと、それでも人間は絶対的に平等である。
それは我々が、全て偶然の産物だからである。
能力のある人は、勝手に活躍して勝手に金を稼げばよい。勝手に幸福を楽しめばよい。使いたいことに金を使えばよい。しょせん自分の人生だ。
別に私は突き放して言っているのではなく、本当に心からそう思う。
たまたま何らかの能力のある個体が、他の個体より(何らかの意味で)成功するというのは、別に抑制すべきことでもなければ「他の仲間を助けろ」と言う筋合いのあることでもない。
ただ、そういう個体を「尊敬する」「讃える」というのは、どう考えたっておかしなことだとみなさん思うはずである。
しかしそれでも、人間の「個体という器」と、そこに入っている「能力」を分離して考えるのは難しい――
もし我々が驚嘆の声を上げるとすれば、それは「能力」自体についてである。(すさまじい暗算能力とか、目から鼻に抜ける才知とか。)
しかし我々は、それを「持っている」個体の方にむしろ驚嘆してしまう。
なるほど両者は一体にしか見えないので、それが“自然”なことなのだろうが、しかし本当は、“自然”と“真実”から最も遠い反応ではないか?
ライプニッツは天才と呼ばれ、それは彼が超越的な能力を持っていたからである。
しかしその能力は、ライプニッツという名の(あの)個体が、たまたま持って生まれてきたものだった。
別にそれは、彼という個体と結びつかなくとも良かった。
あなたでもあなたの父でも親戚でも、本当に誰でも良かったのだ。
我々が「当たりくじをたまたま引いて生まれてきた人」を賛美するのを止めるとき――
大は人種差別も民族差別もなくなるだろうし、小は誰もが謙虚になれるだろう。
現代日本人に生まれるのも13世紀のモンゴル人に生まれるのも、ただの偶然でありそれ以上の意味はない。
そこに意味があるとすること、意味があると思おうとすることは、まことに怪しげな宗教の世界に足を踏み入れることである。
能力のある者は天を羽ばたき、能力のない者は地を這う……
しかしそれもただの偶然なのであり、羽ばたくよう生まれついた者は勝手に羽ばたけばいいではないか。
宝くじに当たった者を「うらやましい」と思うのはどうしようもないことだが、しかしだからといって自分が彼らより劣っているとか「下にいる」とか考えるのは、まるで理屈に合わないことなのである。