10月26日、仙台地裁(高宮健二裁判長)は、東日本大震災の津波で宮城県石巻市立大川小学校の児童70名(プラス行方不明4名)と教職員10名が死亡した件について――
石巻市と宮城県に、約14億円の賠償を命じる判決を出した。(請求額は23億円)
理由は、市の広報車が学校周辺で津波が来ることを放送して回っていた以上、「大規模な津波の襲来は予見できたと認められる」、「学校の裏山に避難させればよかったのに、結果回避の義務違反があると認められる」というものである。
これに対し、10月30日には石巻市議会が控訴案を可決(賛成16・反対10)、宮城県も控訴する方針を固めたという。
もちろん提訴した遺族からは、憤りの声が上がっている。それは当たり前である。
そして県と市が控訴するのもまた、当たり前としか言いようがない。
このブログで何度も書いてきたことだが、つくづく教師というのは地雷業である。
(⇒ 2016年3月15日記事:広島中3自殺事件雑感 その4 ~君、教師になりたもうことなかれ~)
(⇒ 2015年7月11日記事:やっぱり教師は地雷業――最悪の戦場に奇蹟はなく、教職は賤業化する)
(⇒ 2015年5月29日記事:なぜイジメ自殺は…その11 現代日本の七不思議の一つ――まだ、教師になりたがる人がいる!)
その事実は、日々刻々とニュースで裏書きされている。
今回の裁判で原告(遺族)が掲げた「学校・先生を断罪!」「先生の言うことを聞いていたのに!」という横断幕を見てもなお学校教師を志望する人というのは、本当にどうかしているのではないかと思ってしまうほどである。
私はやはり、「他人の子どもを預かる」などという危険極まる職業は、人類のためにこの世から消えるべきだと思う。
(そして実際、消えていくだろう。あなたもまさか、500年後にも教師という職業があるなどとは想像しないはずだ。)
ところで今回の件に限らず、裁判の判決が出たというニュースを見るたびに思うのは――
原告の人たちというのは、「勝訴!」及び「不当判決!」という2種類の横断幕・垂れ幕を、事前に用意してるんだろうなぁということである。
これはもう、日本の裁判の慣例そして日本独自の風物詩なのではないだろうか?
原告はそういうことをするものだ、という「しきたり」「作法」にまでなっていないか?
(外国の裁判でこんなことがされているのかどうか、私は何も知らないのだが……)
またいつも思うのは、「結局、裁判ってその程度のもの」という感想である。
むろん裁判の判決は国家権力が出すものなので、現実の強制力があることは間違いない。
そして法曹界では言うまでもなく、一般世間にも裁判の判決とは「権威あるもの」として受け止められている。
しかしながら、訴訟をやっている当事者や、その訴訟に関心のある第三者(ニュース読者)とすれば――
自分に有利な/都合のいい/意に沿う判決が出れば「司法の判断を尊重せよ」「これは未来を開く判決」と言い、
その反対であれば「不当判決だ」「司法は実態がわかってない」と批判するものである。
これはほとんど絶対的な事実であって、この世で最も普遍的な「ポジショントーク」の一種と言っていいだろう。
というか人間は誰でもポジショントーカーであり、その言うこと・思うことのほとんど全部はポジショントークだと言っていいのではないだろうか?