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プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

社会、ニュース、歴史、その他について日々思うことを書いていきます。【プロレス・格闘技編】はリンクからどうぞ。

広島中3自殺事件雑感 その4 ~君、教師になりたもうことなかれ~

 今回の自殺事件が学校のミスによるものであることは、学校側も認めている。

 その主なものは次のとおり。


(1)  万引きをした生徒については五者面談を行なうなどの内規を定めていたが、(真の万引き生徒について)その全てを行なわなかった。
 その場でコンビニに謝罪し、コンビニも警察に言わないこととなったため、事に当たった教師が「解決したこと」と見なしたからである。

(2)  生徒指導主事教師は、万引きについて生徒指導推進委員会資料へのデータ入力を行なう際、誤って自殺生徒の名を入力した。
 「どうして間違ったか覚えていない」らしい。

(3)  生徒指導推進委員会の使用資料において、万引き生徒の名前が間違っていると参加教師が指摘した。
 参加者各自は手元の紙資料を手書きで直したが、パソコンの元データは修正されなかった。
 誰が元データを修正するのか決めておらず、管理職からも元データを直すよう指示がなかったからだという。

(4)  現担任教師は、自殺生徒に具体的に「いつ・どこで・何をした」かを確認しなかった。


 さて、これらのミスははたして、学校を指弾する人が言うように「あり得ない」「考えられない」ミスであり杜撰さだろうか。

 まず(1)だが、これはいかにもありそうなことである。

 警察沙汰にならずに済んだのだから、この件はもうそれで終わり――わざわざ内規に従って面倒なことを手間をかけることはない。

 ただ握り潰すことはできないので、会議資料には載せておく。

 こういうことって、どこの職場でも生じていそうなことではないか?(たぶん、あなたもやったことがある。)

   
 次に(2)。入力ミス・勘違いミスは、それこそ日本全国で毎日毎日星の数ほど生じている。

 そして「どうして間違ったか」などわかるわけがない。間違いとはそういうものである。


 次に(3)。会議資料が間違っており、それを手書きで訂正するのは、これまた日本全国で星の数ほど生じている。

(そして間違いなく、あなたもそういうことをしたことがある。間違い資料を作る方と、それを手書きで直す方のどちらもだ。)


 しかしこれは完璧に言い訳できないミスだろうと思われるのは、「誰が直すか決めていなかったから元データを直さなかった」という点である。

 もちろん、直す人は決まっている。この会議資料を作った人である。

 必ず絶対、誰かがこの会議資料を作っている。そこに間違いがあったなら、会議が終わった後でその人が打ち直すのが当然だろう。

 少なくとも私なら絶対そうする。これは自信を持って断言できる。

(そしてまた管理職も、わざわざ「元データを直しとけよ」などと言うはずがない。そこまで念を押す人間というのもなかなか珍しいものだ。)


 ただ、「自分の作った(誤りのある)会議資料の元データを、会議が終わった後でも直さない人」というのは、全国に結構いそうではある。

 打ち直しもせず“もう終わったことだから”とそのままデータをいじらない人というのは、私が思う以上に多いかもしれない。 


 最後に(4)。これは先にも書いたとおり、もし担任教師と自殺生徒のやりとりが本当にあんなのだったとすれば、「この子はやっぱり万引きした」と確信するのがむしろ当然――

 あなたが担任教師であっても、やはり確信していただろう。


 以上、総じて思うのは――

 こういうミスは誰でもやるし、どこの職場でも日常茶飯事的に起こっているだろう、ということである。

 「自分は(そして自分の職場は)こんなことをしない/したことがない」と断言する人がいたとすれば、彼は臆面もないウソつきだと思う。


 しかしそういうミスをやったからと言って、ほとんどの場合は人が死ぬわけではない。

 当人はとてつもないショックや罪悪感を覚えるかもしれないが、今回のような悲劇に至ることはごくごく稀である。

 だが、教師の場合は違う。

 今回のような悲劇を起こす可能性が他の職業に比べて極めて高く、実際こうして現実化もするのである。

 しかも教師が対する相手は、“複雑な心理を持つ”とされる思春期の子どもたち(プラスその保護者たち)。

 それを毎年何十人も相手して、それで何十年の職業生活を過ごしていく――

 いやはや、これほど危険極まるリスクを抱えた職業が他にあるだろうか?


 私は教師でもないし教師をしたこともないのでわからないが、たぶん教師には“やりがい”や“充実感”もあるのだろう。その職業の素晴らしさを実感することもあるのだろう。

 しかしそれらは、この巨大なリスクと天秤にかけて、なお重いものであるのだろうか。

 教師という職業を選ぶことは、爆弾を抱えて地雷原を歩き続けるのにも似た人生の選択ではないだろうか。

 教師になるくらいなら、フランス外人部隊にでも入って、見も知らぬ国で戦っていた方がはるかにイキイキ伸び伸び生きられる――

 それは誇張だとわかっていても、やはりチラッと頭をかすめるのである。 


※なおこのことについては、過去にもいくつか記事を書いているので参照されたい。

tairanaritoshi.blog.fc2.com

tairanaritoshi.blog.fc2.com


 はたしてあなたは、教師になりたいだろうか。自分の子どもに教師になってもらいたいだろうか。

 今すでに教師である人は仕方ないとして、いま現に教師志望の人たちというのは、毎日のニュースも見ないような情弱な連中だと感じてはいないだろうか。

 私が思うに、もう世の中はそういう雰囲気になりつつある。

 特に公立校の教師というのは、リスク意識もニュース感覚も備えていない“意識低い系”の人間がなるものだという雰囲気が、社会で一般化すると思う。

 わが子が「教師になりたい」とか言い出したら、ぶん殴ってでも止める――

 かつて「3K」などと言われた職業と、同じ程度に教師の地位は見なされる――

 そういう時代は、すぐそこにある。

 またさらにもう一つ、「人と接する量が多ければ多いほど、その職業は低級である」との雰囲気も、社会に浸透しつつあると思われる。

 そして教師は、人と接する職業の代表的な例である。(極限的な例である、とさえ言えるだろうか?)

tairanaritoshi.blog.fc2.com


 現代の日本人は、昔の中国の士大夫が「まともな人間は兵士になんかならない」と思っていたように、「まともな人間は教師になんかならない」と思う時代を迎えたのかもしれない。

 与謝野晶子は「君、死にたもうことなかれ」と詠んだ。

 現代の我々は若者に対し、「君、教師になりたもうことなかれ」と心底言うべきなのだろうか?