4月24日、民間有識者で構成する「人口戦略会議」は――
全国総数の約4割に当たる744の自治体が、2050年までに20代~30代の女性が半減して「最終的には消滅する可能性がある」との研究結果を公表した。
(⇒ NHK 2024年4月24日記事:“消滅する可能性がある”744自治体 全体の4割に 人口戦略会議)
(⇒ 北海道総合研究調査会 2024年4月24日記事:【人口戦略会議・公表資料】『地方自治体「持続可能性」分析レポート』)
これはしかし、驚倒・震撼するような結果ではない。
既に10年前の2014年には「日本創成会議」が消滅可能性都市をラインナップしており、これは一世を風靡したものだ。
今回の第2弾を聞いたところで、多くの人は「まあ、そうでしょうね」くらいにしか思わないのではなかろうか。
人口動態自体が「既に起こった未来」だというのは人口に膾炙しているが、この消滅可能性都市というのも「既に聞いたニュース」のような気がしないでもない。
ところで私がいつも疑問に思うのが、いったい自治体の「消滅」とは何を意味しているのだろうかということである。
それは字句どおり「人口ゼロ」を意味するものではないだろう。
いくら何でもその土地には、10人くらいの人は残っているはずである。
それとも本当に人口ゼロを意味するのであって、それはコンパクトシティ化によって達成される、ということだろうか。
それにしても日本でコンパクトシティという言葉が聞かれるようになり、もう何十年にもなる。
かつ、少なくともネット上では「コンパクトシティ化しか日本の生きる道はない」と言っている人も大勢いる。
ところがどっこい(きっと、コンパクトシティ化しかないと言っている人たちも重々わかっているのだが)、コンパクトシティ化とは「言うは易し、行うは難し」の典型例である。
そんなことをしようとすれば、過疎地域から都市部へと人は移住しなければならない。
「もうあなたたちの住んでいる所にはインフラ整備も補修もしません、だから都市部へ移り住んでください」と言わねばならず、かつそれに今の住民が応じねばならない。
こんなことできるわけない、と思わない人がいるだろうか。
よって「自治体が消滅する」とは、詰まるところ「周辺自治体との合併により既存自治体が消滅する」ということになる。
これは既に日本人は、明治・昭和・平成の大合併で何度も経験してきたところではあるまいか。
私は、そういう経験が日本人にとって「たいしたことではなかった」と言うつもりはない。
それは確かに、日本に住む個々人に(あるいは企業や商店に)ある程度の影響はあったろう。
だが、それが根本的に日本の社会を変えたかと言えば、ちょっと考え込んでしまうのだ。
もっとも、これから起こるだろう「令和以降の大合併」は、今までの合併よりはるかにインパクトのあることだという予兆はある。
たとえば秋田県などはしばしば、「県内すべての市町村が合併して秋田市1つになればいい」などと言われている。
それは極端にしても、県内に4つか5つの市しかなくなる事態はあり得るだろう。
そうなったら今度こそいよいよ、あの「道州制」の議論が活発になるだろう。
今までの「県-市町村」体制が「州-統合市町村(これは「市」のみになるかもしれない)」体制に変わるというのは、明治以来の地方自治の大転換である。
特に大きく変わりそうなのは、選挙のやり方で――
今は一つの村内にいくつも設けられている投票所をどうするのか、スタッフはどう派遣・配置するのか、とても大きな問題になるはずである。
それでもなお「投票所に足を運んで、紙に書いて投票する」から「ネット投票」が実現する道は、極めて厳しい――
それこそSDGsではないが、「誰一人投票に行けない人を作らない」を絶対基準とするのが日本人の感覚なのであるから、少なくとも「世界中の人口希薄な地域では、どうやって選挙をしているのか」の事例研究は必須だと思われる。
それにしても、はなはだ無責任で不謹慎な話ではあるが――
本当に今の日本の自治体の4割が「消滅」して無人になるというのには、どこかロマンの響きがないだろうか。
もしそれが現実になったとしても、後世の人はほとんど何の感慨もなく「歴史ってそういうもん」だとか思うに違いないことは、逆に今を生きる我々には感慨深いものがないだろうか。
栄華を誇った古代都市、様々な人間ドラマがあったに違いない古代村落は、世界中で何百何千も打ち捨てられて無人化してきた。
我々はそれを知っているかもしれないが、だからと言って深く悲しんだりはしない。
圧倒的大多数の人は「へえ、そういうことがあったんだね」と軽く感じるくらいである。
はたして西暦2100年の世界から振り返ったとき、日本人は今の日本をどんな風に感じているだろうか……