プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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儒教「受け売り冤罪」事件-これが少子化非婚化の原因となぜ思う

 日本もそうだが、東アジア各国の出生率低下・少子化・非婚化は世界の中でも低い方と言われる。

 そして、その原因として打てば響くように返ってくる答えが「儒教という言葉である。

 「儒教による家父長制」が強い地域ほど女性が抑圧されている(に決まっている)ので、「当然」非婚化も少子化も進む、という理屈である。

 しかし私はこれは、世にも珍しいほど的外れな理屈だと思っている。

 端的に言ってこれは、儒教冤罪事件」だと思っている。

 それについては、以前も記事を書いた。

(⇒ 2023年1月24日記事:諸悪の根源?「昭和」と「儒教」(下)-非婚化・少子化は儒教のせいか)

 さて、私は別に、儒教の信奉者でもファンでもなく、もちろん護教論を展開しようという気もない。

 いや、私ばかりでなく、そもそも儒教の信奉者なんて日本に何人いるだろうか。

 日々論語を読んでいる人なんて、日々聖書を読んでいる人に比べれば10分の1にも満たないに違いない。

 それでも再度「儒教冤罪事件」について書くのは、それがあまりにも世に氾濫しているからである。

 少子化非婚化のネット記事のコメント欄をほんの少し見れば、必ずや「儒教のせい」という書き込みが見つかる、と言っても過言ではない。

 それどころか、たとえば街角インタビューや身近な人との会話で少子化非婚化の原因について聞かれれば、非常に大勢の人が「儒教のせい」みたいなことを言うのではなかろうか。

 それも、論語も一読したことがなく、孔子って誰ですかと聞き返すようなアンチャン・ネーチャンたちさえもが、だ。

 私はこの現象は、「受け売り」以外の何物でもないと思う。

 人が「儒教のせい」だと言うから自分も言う、人が言うから自分もそう思う……

 そうでなければ少子化非婚化が儒教のせいだなんて、いったい何人の人が自力で考えつくだろうか。

 私が極めて不思議に思うのは、人から「少子化非婚化が儒教のせい」と聞いて「肚落ち」する人がこれほど多いらしい、という事実である。

 もっと踏み込んで言えば、そんなことにたやすく納得し共感するという精神構造が不思議なのだ。

 だいたい、儒教少子化非婚化に関係あるということ自体、かなり突飛な組み合わせである。

 そんな話を聞けば、そもそも儒教って何だろう、論語にはどんなことが書いてるんだろうと調べたりするのが当然だろう。

 しかしもちろん、儒教原因説に納得・共感・肚落ちする人の90%以上はそんなことはしていない、と断言するのは過言だろうか(笑)


 儒教というものをもし一言で表せと言われれば、それは「孝」の一字ということになるだろう。

 むろん親への孝であり、先祖への孝である。

 だから本当に儒教が社会全体の道徳だった昔の中国人にとっては、とにかく「家系を絶やさない」ことが最も大切なことだった、というのは有名な話だろう。

 すなわち儒教のせい」にできるのは、「どんな無理をしてでも結婚する・子どもを作る」のが社会問題になっているときにこそふさわしい。
 
 そういうときこそ、儒教の悪影響が問題になるべきなのだ。

 それなのに、全く真逆の少子化非婚化が儒教のせいにされているというのは、異常な奇観ではあるまいか。


 また、何も少子化非婚化が進んでいるのは東アジアだけではない。

 イタリアやスペインは日本より出生率が低いし、ヨーロッパ諸国も全体的に似たようなもの。

 ギリシャなんかは「世界で最もセックス回数の多い国民」として有名なのに、それでも出生率1.4程度。

 何となく多産のイメージがある東南アジアのタイも日本と大差なく、それどころか全世界的に出生率は低下している。

 さて、東アジアの出生率低下が儒教のせいならば、イタリア・スペイン・ギリシャの低下はキリスト教のせいだろうか。

 タイの低下は仏教のせいだろうか。

 そんなこと言われて肚落ちする人が、はたして何人いるだろうか。

 やっぱり「儒教のせい」だというのは、冤罪と呼ぶべきではないか。

 
 私はこの儒教のせい」説の広まりは、いかに世の中に「受け売り文化」が広まっているかの表れだと思う。

 ネット社会になったことにより、受け売りによる納得・共感・肚落ちが社会を席巻している象徴の一つだと思う。

 ひょっとして世の中には、もはや受け売りでしか納得・共感・肚落ちできない人がゴマンといるのではなかろうか。

 少子化非婚化が儒教のせいだと言う人が、はたして儒教のいったい何を知っているのか、知ろうとしたことが一度でもあるか……

 別に儒教の味方でなくとも、それくらいのことは感じて当然だと思うのである。

 

 

解釈改憲再び-高裁初判決「同性婚否認は違憲」じゃなく「同性婚容認に憲法が違反」じゃないの?

 3月14日、札幌高裁は、同性婚を認めていない現行の民法や戸籍法の規定は違憲であると、高裁として初めて判決した。

 ただし、国への賠償請求は認めなかった。

(⇒ ハフポスト日本版 2024年3月14日記事:【判決要旨全文】札幌高裁が「違憲」と判断した理由は?(結婚の平等裁判))

(⇒ 朝日新聞 2024年3月14日記事:同性婚を認めない規定は「違憲」 札幌高裁判決 初めての高裁判断)

 さて、この同性婚の容認・否認というテーマ、今の日本のメディア界で最もホットなテーマの一つである。

 そして私は、同性婚を(そんなに積極的にというわけでもないが)認めていいと考える立場である。

 今の流れから行けば、いずれ日本で同性婚は晴れて公然と認められることになるだろう。

 私はそういうのも、社会実験として面白いことだと思う。

 反対派の人たちが言う「社会に悪影響が出る」というのが本当のことなのか、答え合わせする唯一の方法だと思う。

 ただ、今回の判決について――というか同性婚絡みの判決全てについて――思わずにいられないことが、一つある。

 それは、同性婚を認めない現在の法制が「違憲」だというのは、明らかに間違いじゃないかということだ。

 むしろ同性婚を認めてないのは、明らかに憲法の文言の方じゃないかということだ。

 今回の札幌高裁判決は、同性婚を認めない現在の法制は、憲法24条に違反するものとした。

 その憲法24条は、

 第1項 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 

 第2項 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 となっている。

 もちろん「夫婦」と書いている以上、憲法は明らかに「男と女のペア」が婚姻することを当然の前提としている。

 となると「両性」というのも「男と女」のことである。

 それを今回の判決では、憲法24条は「文言上は両性間の婚姻を定めているが、個人の尊重がより明確に認識されるようになったとの背景の下で解釈することが相当」であり、

 「婚姻は当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたもの」であり、

 「人と人との間の自由な結びつきとしての婚姻をも定める趣旨を含むもの」であって、

 「異性間の婚姻のみならず、同性間の婚姻についても、異性間の場合と同じ程度に保障していると考えるのが相当」と解釈した。

 これはいわゆる、「解釈改憲」である。

 「憲法にはなるほどそんな表記がしてあるが、その趣旨からすればこう解釈するのが妥当」という形で、文言はそのままに換骨奪胎する形での実質的な改憲だ。

 しかしこれ、普通の人にしてみれば、どう見ても憲法の文言の方が同性婚の容認を阻害している。

 だからもちろん、同性婚を認めない現在の法制が憲法に違反しているのではなく、「憲法の方が同性婚を認めてないのが(同性婚にとって)違反」となるのが当然ではないか。

 たとえば憲法24条の改正は、こんな風にすべきだろう――

 第1項 婚姻は、「当事者一名ずつの」合意のみに基いて成立し、「当事者同士」が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 

 第2項 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と「人間の」本質的平等に立脚して、制定されなければならない。


 しかし私は(当然のことだが)、裁判官が違憲判決は出しても「憲法がおかしい」判決を出さないことを批判しようとは思わない。

 しょせん裁判官には、そんな判決は出せないからだ。

 憲法の方がおかしいから改正すべきだ、なんて判決することは、しょせん裁判官の権能のうちには入らないのである。

 そしてまた、思うのだが――

 こういう解釈改憲をすることは、「しょせん憲法なんてその程度のもの」という意識を国民に根付かせるのに十分な効果があるのではなかろうか。

 なんたって、誰が読んでも「婚姻は男と女がするもの」と憲法に書いてあるのに、実際はそうじゃない、別の意味がある……

 というのが「正しい解釈」だ、というのだから。

 こんな憲法アホらしくって、まともに読んでいられない――となるのが、まともな人間の感覚というものだと思う。

 まあ、しかし、何度か書いていることではあるが――

 すでに憲法については「自衛隊は、憲法が保持することを禁じる『戦力』じゃない、軍隊じゃない」なんて超絶アクロバット解釈がされてきて久しいのだから、いまさらどうこう言っても仕方ないのかもしれない。

 

 

キリン、成田“集団自決”悠輔氏の広告起用取下げの怪

 キリンは今月から、缶チューハイ「氷結無糖」のWEB広告に、あの成田悠輔 氏を起用していた。

 ところがもちろん成田氏は、2021年に「高齢者は集団自決するしかない」と発言して話題になった人である。

 当然ながらこの広告起用には批判が集まり、結局3月12日、キリンは彼の広告を削除した。

 キリンは取材に対し、「幅広い立場の方に、氷結無糖の良さをご自身の言葉で語っていただくことを目的に企画しWEB広告に起用しました」、

 「過去に成田氏の発言の中にあった表現が比喩か否かは別として、過度な表現があると判断しました」

 「今回のWEB広告に対して、様々なご意見を頂戴したため、総合的に判断し、一部投稿を取り下げることにしました」

 と答えたとのこと。

(⇒ まいどなニュース 2024年3月12日記事:キリン、成田悠輔氏の「氷結」広告を取り下げ 「高齢者は集団自決」発言に強まる批判 「過度な表現あった」と説明)


 これ、本当に不思議なのだが……
 
 キリン広報部もキリンと契約した広告代理店も、成田氏が(近々2年前に)こんな発言で有名になった人だというのを、まさか知らないはずはない。

 むろん知った上で広告起用したわけであり、たぶん本当の起用理由は「なかなかエッジの効いた人みたいだから」というものだったと思われる。

 これは言うまでもなく火中の栗を拾うようなものであり、それを見た人たちから批判が来るのは、それこそ火を見るように明らかだ。

 広告代理店の社員だろうと誰だろうと、こんなことが予測できないわけはない。

 当然ながら、今回の広告の企画会議ではそういうリスクが採り上げられたに違いなく――

 そこでの結論は、当然ながら「多少の批判は覚悟する」「批判があっても継続する」というものだったに決まっている。

 ……ところがどっこい、この「来るに決まっている批判」が来た途端、「過度な表現があると判断し広告取りやめ」である。

 私はやっぱり皆さんと同様、いろんな意味で「なぜだ?」と思わずにいられない。

 なんだか、キリンほどの大会社のビジネスパーソンと言えども、この程度のもんなのかと思ってしまうのである。

 しかもこんな例は今回が初めてではなく、名だたる大企業が何度も何度もやらかしている。

 そんなのを経て、いまだ再生産が止まないのだ。

 もしかして大企業って、これだけ多くのビジネス理論本・マーケティング本・プロモーション理論の記事が世の中には氾濫しているにもかかわらず――

 単に「テレビやネットで有名だから」という理由で、どの人物を広告起用するかを決めている(しかもそれに関係者みんなが同調する)のではないか、それほど単純な世界なのではないか、と誰が疑わずにいられよう。

(⇒ 2019年1月6日記事:そごう・西武の女性広告が炎上-なぜ人は百貨店のCMに政治的メッセージを込めたがるのか)

(⇒ 2020年8月19日記事;Amazonプライム、三浦瑠麗CM動画を削除-アマゾンもまた美人資本主義から逃れられぬ)


 それにしても、本当に奇怪である。

 「かくすれば、かくなる」ことは、ほとんどの小中学生にさえわかりそうなものなのに、それが大企業の企画会議を何度も通ってしまうのだ。

 こんなことが絶えることなく頻発しているのだから、よく悪口を言われる「日本が勝てるはずもないとわかりきっている太平洋戦争に突入した」経緯というのも、別に現代人に悪口を言われる筋合いはない、なんて感じてしまうのである……